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福岡高等裁判所 昭和57年(う)114号 判決

《目  次》

事件番号、被告人の表示及び前文

主文

理由

第一 本事件の経過

一本件起訴にかかる公訴事実

二原判決(第一審判決)の要旨

三差戻前控訴審判決の要旨

四上告審判決(以下「差戻判決」という)の要旨

第二 訴訟手続の法令違反の主張並びにこれに対する当裁判所の判断

一被告人及び弁護人らの訴訟手続の法令違反の主張

1被告人に対する本件取調は別件の逮捕・勾留中になされたもので違法であり、被告人の自白及び不利益事実の承認部分は証拠能力がないとの主張

2被告人に対する本件取調は、捜査官の拷問、強制、誘導、誤導によりなされ、あるいは被告人の病気による疲労困憊中になされたもので任意性がないとの主張

二訴訟手続の法令違反の主張に対する当裁判所の判断

1別件逮捕・勾留に基づき違法に収集された自白調書等に証拠能力がないとの主張について

(一) 本件捜査の概要

(二) 別件捜査の概要並びにその起訴、審理、判決に至るまでの経緯

(三) 被告人に対する別件逮捕・勾留中における本件に関する取調

(1) 概要

(2) 被告人の別件逮捕・勾留中における本件に関する供述調書

(3) 被告人に対する別件逮捕・勾留中における本件に関する取調状況

(4) 本件に関する証拠とくに客観的証拠の収集状況

ア 別件逮捕に至るまでの証拠収集状況

イ 別件逮捕から約一か月間の証拠収集状況

ウ 別件逮捕から約一か月経過してから後での証拠収集状況

(四) 本件逮捕・勾留中作成の被告人の供述調書

(五) 被告人に対する別件の逮捕・勾留を利用した本件に関する取調の違法性

(六) 原判決に影響を及ぼす訴訟手続の法令違反

第三 事実誤認の主張並びにこれに対する当裁判所の判断

一被告人及び弁護人らの事実誤認の主張

1原判決が被告人の本件自白の裏付けとされる①原判決にいわゆる「甲の毛」及びその鑑定、②本件犯行現場近くから採取された車てつ痕、③本件犯行現場で被告人が負つたとされる被告人の右手首の外傷痕はいずれも証拠価値がないとの主張

2被告人の自白については、①それが真実であれば当然その裏付けが得られて然るべきであると思われる事項に関し客観的な証拠による裏付けが欠けている。即ち、現場遺留指紋の中から被告人の指紋が一つも発見されていない、被告人の身辺から人血の付着した着衣等が発見されていない、犯行に使用された兇器が発見されていない、また②証拠により認められる客観的状況と被告人の自白が矛盾する、③証拠上明らかな事実につき説明が欠けている、④被告人の自白の内容に不自然、不合理な点が多い、など自白に信用性がないとの主張

3犯行時刻とアリバイ成立の主張

二事実誤認の主張に対する当裁判所の判断

1被告人の捜査段階における自白内容

2原判決にいわゆる「甲の毛」等の証拠価値について

(一) 原判決にいわゆる「甲の毛」の形状に関する昭和四四年五月三〇日付矢野・大迫鑑定、同年七月七日付大迫鑑定及び同年七月一七日付須藤鑑定

(1) 昭和四四年五月三〇日付矢野・大迫鑑定

(2) 昭和四四年七月七日付大迫鑑定

(3) 昭和四四年七月一七日付須藤鑑定

(二) 「舩迫清の陰毛二三本」のうち所在不明となつた五本について

(1) 原審に「甲の毛」及び「舩迫清の陰毛二三本」中の一八本が提出され、右二三本のうち五本が不足していることが問題となり、その不足分として毛髪五本が提出されるに至つた経緯

(2) 「舩迫清の陰毛二三本」中の所在不明五本に関する警察技師大迫の原審における説明

(三) 鑑定人須藤の第二次、第三次鑑定(不足分として提出された五本が人頭毛であつたこと)

(四) 差戻判決の指摘

(五) 当裁判所の事実調

(1) 陰毛の採取、保管等に関する事実調

(2) 所在不明とされている陰毛五本に関する警察技師大迫、警察庁技官須藤の説明

(3) 形状とくに捻転屈曲に関する警察技師大迫、警察庁技官須藤の説明

(六) まとめ

3車てつ痕の証拠価値について

(一) 被害者方木戸道から被告人が使用していた車の車てつ痕が発見されたこと

(1) 被告人が本件事件発生日ころ使用していた車の状況

(2) 昭和四四年一月一八日及び一九日被害者方木戸道等から発見された車てつ痕

(二) 車てつ痕に関する被告人の説明

(1) 発見された車てつ痕は昭和四四年一月一七日夜利則方へ行つたとき印象されたものであると述べるに至つた経緯

(2) 捜査段階において被告人が述べていた車を停めた位置

(三) 差戻判決の指摘

(四) 当裁判所の事実調

(1) 被告人の当裁判所における昭和四四年一月一七日の停車位置に関する供述

(2) 昭和四四年一月一六日から一八日までに本件犯行現場付近で降つた雨量

(3) 観測値の雨量による、同月一五日夜印象されたとする車てつ痕の変容の可能性

(五) まとめ

4被告人の右手首外傷痕の証拠価値について

(一) 右手首外傷痕についての捜査段階における被告人の供述並びに教授城哲男の鑑定

(二) 右手首外傷痕についての原審公判段階における被告人の供述

(三) 被告人が交通事故により負傷したという、その傷に関する医師春別府稔の供述及び教授城哲男の意見

(四) 差戻判決の指摘

(五) 当裁判所の事実調及びまとめ

5指紋及び血痕について

(一) 本件犯行現場の状況

(二) 被害者利則及びキヨ子の傷の状況

(三) 血痕の付着状況とその血液型

(四) 加害者に対する血液付着の可能性に関する牧角鑑定

(五) 被告人の捜査段階における自白中、指紋・血痕の付着可能性をうかがわしめる部分

(六) 指紋、血痕付着物と思料されるものに対する捜査状況

(七) 差戻判決の指摘

(八) 当裁判所の事実調

(1) 指紋につき

ア 鏡台抽出は物色されたか、また、その抽出に指紋は付着していたか

イ 採取された指紋の場所及び個数

ウ 対照可能指紋、対照不能指紋(被告人の指紋不検出)

(2) 血痕(特に東側障子の鴨居、床の間板壁、天井等にA型血液は付着していたか)につき

(九) まとめ

6馬鍬の刃について

(一) 馬鍬の刃が本件犯行の兇器とされるに至つた経緯

(1) 被害者両名の死体を解剖した教授城哲男の成傷兇器に関する意見

(2) 被告人が馬鍬の刃を兇器と自供するに至つた経緯

(3) 右被告人の自供に基づき馬鍬の刃が押収されるに至つた経緯

(4) 被害者らの傷は押収されたものと同種の馬鍬の刃により成傷可能か

(二) 被告人が馬鍬の刃を兇器と自供する以前から、捜査官においてこれを兇器としていたかの如き捜査官等の供述

(三) 被告人が自供した馬鍬の刃に関する荷台からの落下実験及び捜索の結果

(四) 差戻判決の指摘

(五) 当裁判所の事実調

(1) 捜査官が意図的に馬鍬の刃を本件犯行の兇器としようとしていたか否かにつき

(2) 馬鍬の刃を発見できない事情につき

(六) まとめ

7客観的事実と自白の不一致、証拠上明らかな事実についての説明の欠落及び自白内容の不自然、不合理性について

(一) 客観的事実と自白の不一致等

(二) 証拠上明らかな事実についての説明の欠落

(三) 自白内容の不自然、不合理性

8犯行時刻とアリバイについて

(一) アリバイに関する被告人の供述

(1) 捜査段階において被告人が供述していた昭和四四年一月一五日夜及び同月一七日夜の被告人の行動

(2) 公判段階において被告人が供述する昭和四四年一月一五日夜及び同月一七日夜の被告人の行動

(二) 原審証拠に現われた本件犯行時刻

(三) 差戻判決指摘

(四) 当裁判所の事実調

(1) 利則の胃内容物の消化の程度並びに利則の血中及び尿中に含まれるアルコールの量からの犯行時刻の特定

(2) 本件腕時計による犯行時刻の特定

ア 第一次牛山鑑定について

イ 遠山鑑定について

ウ 第二次上迫鑑定について

エ 第二次牛山鑑定等について

(五) 犯行日は昭和四四年一月一六日でなく同月一五日であることについて

(六) まとめ

9事実誤認に関する総まとめ

第四 結び

別紙図面第一図

別紙図面第二図

別紙図面第三図

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、被告人作成の昭和五一年六月二六日付控訴趣意書及び同年一〇月一五日付上申書、差戻前控訴審弁護人田平藤一作成の同年六月二八日付控訴趣意書のほか、控訴趣意を補充する当審弁護人金井清吉、同門井節夫、同加藤文也、同八尋光秀、同幸田雅弘連名作成の昭和六〇年一〇月二一日付及び二二日付各弁論要旨記載のとおりであり、これに対する検察官の答弁は、差戻前控訴審における控訴趣意書に対する福岡高等検察庁宮崎支部検察官検事柴田和徹作成の昭和五一年一一月二六日付意見書のほか、答弁を補充する福岡高等検察庁検察官検事吉川壽純作成の昭和六〇年一〇月二一日付弁論要旨記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。

第一  本事件の経過

本件控訴の趣意は、訴訟手続の法令違反の主張と事実誤認の主張であるが、本件は上告審からの差戻事件であるので先ず従来の審理経過の概略を述べることとする。

一本件起訴にかかる公訴事実

「被告人は、昭和四四年一月一五日午後九時ごろ、鹿屋市下高隈町五二五折尾利則(当時三八年)方において、同人の妻折尾キヨ子(当時三九年)と同衾中、折しも帰宅した右利則に発見殴打され、さらに野菜包丁で斬りかかられるに及び、同人の顔面を殴打し、同人から包丁を取り上げて取り敢えず難をのがれたものの、その間右キヨ子が馬鍬の刃をもつていきなり右利則の後頭部を背後から殴りつけて重傷を負わせ、同人を昏倒させたのを見届け、かつ、同女より『蘇生しないようにしてくれ』と言われて殺意を生じ、俯伏せに倒れている右利則の頸部に、同人が首にかけていた西洋タオルを巻いて後方より強く締めつけ、間もなく同人を窒息死させて殺害し、次いで、右犯行が右キヨ子の口より発覚することを恐れて同女をも殺害すべく決意し、その場に居た同女に対し、先に同女が使用した前記馬鍬の刃をもつて、いきなり同女の顔面、頭部を数回殴打し、同女を俯伏せに転倒させたうえ、その場にあつた西洋タオルをその頸部に巻いて後方より強く締めつけ、間もなく同女をも窒息死させて殺害を遂げたものである。」というのである。

二原判決(第一審判決)の要旨原判決は、犯行直前の状況につき、公訴事実の記載と異なり、たまたま被告人が利則方に立ち寄つた際、折しもキヨ子と就寝しようとしていた利則から、キヨ子との仲を疑われ、詰め寄られて手で殴打され、包丁で斬りかかられた旨を認定したほかは、ほぼ公訴事実に副う事実を認定したうえ、昭和五一年三月二二日、被告人を懲役一二年(未決勾留日数二四〇〇日算入)の刑に処した。

三差戻前控訴審判決の要旨

右原判決に対し、差戻前控訴審判決は、右犯行直前の状況に関する原判決の認定を誤りであるとし、右の点についても公訴事実に副う事実を認定すべきであるとしたが、被告人が被害者両名を順次殺害したとする原判決認定の基本的事実関係に誤りはなく、右事実誤認は判決に影響を及ぼすものとは認められないとして、被告人の控訴を棄却した(差戻前控訴審における未決勾留日数一二〇〇日算入)。差戻前控訴審判決が被告人を本件各犯行の犯人と断定して誤りないとした理由の核心は、被告人が捜査段階において捜査官に対してした詳細かつ具体的な自白が、物証を含む諸種の情況証拠とよく符合し十分措信するに足りる、というものであつた。

四上告審判決(以下「差戻判決」という)の要旨

右差戻前控訴審判決に対し、差戻判決は、被告人と本件犯行を結びつける直接証拠としては被告人の捜査段階における自白があるだけであるところ、(被告人の自白にたやすく証拠能力を認めることが許されるか否かについても問題がないわけではないが、いまこの点については(証拠能力を認めた)差戻前控訴審の判決の判断に従うとしても、少なくとも、その信用性の判断がいつそう慎重になさるべきことは、明らかであると思われる、とし)(一)その信用性の点につき、(1)被告人の自白については、これが真実であれば当然その裏付けが得られて然るべきであると思われる事項に関し、客観的な証拠による裏付けが欠けている。即ち、現場遺留指紋の中から、被告人の指紋が一つも発見されず、被告人の身辺から人血の付着した着衣等が一切発見されていないし、犯行に使用された兇器も発見されていない、(2)被告人の自白からは、本件犯行の真犯人であれば説明することができ、また、言及するのが当然と思われるような、納戸の鏡台の抽出取手の血痕付着、キヨ子の死体の下半身露出という異常な状態など証拠上明白な事実についての説明が欠落している、(3)被告人の自白には、被告人は、利則から包丁で切りつけられてできた右手首の相当量の出血があつたと考えられる傷をちり紙で止血し、その後被告人が被害者両名を殺害して帰途につくまで、そのちり紙が手首に付着していて帰途車中ではがして路上に捨てたこと、その他不自然・不合理で常識上にわかに首肯し難い点が数多く認められ、これら各点は被告人の自白と信用性を疑わせる問題点であるというべきである、(二)次に、被告人の自白を裏付ける客観的証拠とされた、キヨ子の死体の陰部から採取されたという陰毛三本のうち一本(原判決のいわゆる「甲の毛」)、利則方前私道上から採取され被告人車のそれと同種同型のもの及び紋様、磨耗の形状の符合するものとされた「車てつ痕」、被告人が本件犯行現場で負つたとされる被告人の「右手首の外傷瘢痕」の証拠価値については疑問がある、(三)また、被告人は、昭和四四年一月一五日午後一〇時ころには帰宅していたとみられるものであり、従つて、本件犯行が午後一〇時ころ以前か以後かは被告人のアリバイの成否を決するうえで決定的ともいえる重大な意味を有する事実であるといわなければならないのに、この点証拠上解明されていない、以上本件においては、被告人を本件犯行と結びつけるための唯一の直接証拠である被告人の捜査段階における自白及びこれを裏付けるべき重要な客観的証拠について、その証拠価値をめぐる幾多の疑問があり、また、被告人のアリバイの成否に関しても疑問が残されている、したがつて、これらの証拠上の疑問点を解明することなく、原審及び差戻前控訴審において取り調べられた証拠のみによつて被告人を有罪と認めることはいまだ許されないというべきであつて、差戻前控訴審判決には、いまだ審理を尽さず、証拠の価値判断を誤り、ひいては重大な事実誤認をした疑いが顕著であつて、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであり、その判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる、として、昭和五七年一月二八日、原(差戻前控訴審)判決を破棄する、本件を福岡高等裁判所に差し戻す、との判決がなされたものである。

そこで、当裁判所は、前記各控訴趣意書等及び答弁並びに差戻判決の指摘する、前記各点等にかんがみ記録及び証拠を調査し、さらに、鑑定、検証、証人尋問、書証及び証拠物の取調など審理を重ねたところ、ここに、被告人は無罪、との判断に到達した。その理由は、以下に述べるとおりである。

第二  訴訟手続の法令違反の主張並びにこれに対する当裁判所の判断

一被告人及び弁護人らの訴訟手続の法令違反の主張

所論は要するに、

1被告人に対する詐欺(三事実)、銃砲刀剣類所持等取締法違反(一事実)の各被疑事実についての昭和四四年四月一二日の逮捕及び同月一五日の勾留(その四事実中の三事実が同月二四日準詐欺、詐欺、銃砲刀剣類所持等取締法違反の罪で起訴された。右関係事実を以下において「別件」という)は、被告人の折尾利則及び折尾キヨ子に対する各殺人被疑事実(以下この関係事実を「本件」という)について被告人を取り調べるために利用する意図のもとになされ、かつ実際にも、別件による逮捕・勾留中、本件につき、任意捜査の限界を超えた強制捜査同様の取調がなされているものであり、このような違法な捜査により得られた本件についての自白及び不利益事実承認の各供述調書は、その別件逮捕・勾留中に作成されたものは勿論、これに基づいて順次作成された本件逮捕・勾留(折尾キヨ子に対する殺人被疑事実により逮捕・勾留)中のものについても、違法に収集された証拠として証拠能力がないものである。

2また、被告人の捜査官に対する自白及び不利益事実の承認は、捜査官の拷問、強制、誘導、誤導によりなされ、あるいは被告人の病気による疲労困憊中になされたもので任意性がなく、証拠能力は否定さるべきである。

以上のとおりであるのに、原判決がこれらの違法な捜査により得られた被告人の供述調書に証拠能力を認め、これらを事実認定の証拠としたのは、訴訟手続の法令に違反したものであり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、原判決は破棄を免れない、というにある。

二訴訟手続の法令違反の主張に対する当裁判所の判断

1別件逮捕・勾留に基づき違法に収集された自白調書等に証拠能力がないとの主張について

(一) 本件捜査の概要

記録によれば、

(1) 昭和四四年一月一八日午後、鹿児島県鹿屋市下高隈町五二五番地折尾利則方(別紙第一図参照)において、同人(昭和五年一二月二〇日生)及び同人の妻キヨ子(昭和四年二月六日生)が殺害された状態の死体で発見されたのであるが、その現場の状況は、同人ら方六畳の間において、利則は同間内の東側に南向に、キヨ子は同間内の西側に北向に、それぞれ、俯伏せの状態となり、布団類が乱雑にかけられ、右両名ともその頭部に数か所の傷を負い、タオルで絞頸されていたこと、右両名の死体、着衣、布団類等に血液の付着が認められたほか、畳、床の間、タンス、障子、柱、天井等同六畳間の各所に飛沫血痕が多数みられ、同間の北東隅に所在する床の間の飾餅は飛散し湯呑も転倒して水がこぼれている等同間での乱闘模様が窺われ、また、同六畳の間、四・五畳の間及び二・五畳の間、同間の神棚の抽出し、膳棚(ハンドバッグが置かれている。)等には物色した様子はないものの、右二・五畳の間の北側に所在する縁側物置(納戸)に置いてあつた鏡台の抽出しの取手に血痕の付着が認められ、金品物色の模様が窺われるとされたこと(実況見分調書、捜査報告書等、記録本冊一〇冊、以下記録本冊の冊数については単に冊数のみを示す)。

(2) 翌一九日実施された鹿児島大学医学部法医学教室教授(以下教授という)城哲男の解剖結果によると、利則の死因は後頭部挫裂創に由来する頭蓋骨並びに頭蓋底骨々折の脳挫傷にあり、キヨ子の死因は絞頸に基づく窒息死であり、両名の頭部にみられる各傷を生ぜしめたと推定される成傷器は、いずれも角稜を有する鈍器ないし鈍体とみられ、右両名の死体解剖着手時までの経過時間は約一日以上三、四日以内などが判明するに至り、本件を痴情ないし怨恨、あるいは物盗りに基づく殺害事件とみた捜査当局においては、地元の上別府公民館に特別捜査本部を設置するなどして捜査活動を展開するようになつたこと(解剖鑑定書、捜査報告書等、一〇冊)

(3) 被害者両名の足取りが昭和四四年一月一五日夜から不明であり、本件犯行の際に受けた打撃により停止したとみられる利則の左手首にはめられていたカレンダー付腕時計の停止日付が一五であること、同月一六日配達された家畜の飼料及び伝票がそのまま置かれていることなどから、被害者両名は昭和四四年一月一五日夜何者かにより殺害されたものであるとの見込みの下に、付近の前科者、挙動不審者、日頃利則方に出入りしていた者等につき聞き込み捜査が実施され、その捜査線上に浮び上がつてきた被告人につき、その動向を内偵するうち、被告人は、同月一八、一九日ころ、前年末に忍モータース(鹿屋市上高隈町一九番地所在、田中偲経営)から調子が良ければ買受けるとの約束の下にその引渡を受け乗り回していた軽四輪貨物自動車を右田中方前路上に置いたままにして返していたこと、同月二一日自宅に、同月二七日近隣宅にきた捜査員に対する被告人の各言動に不審な点がみられたこと、被害者方木戸の扉付近から採取された車てつ痕の中に被告人が当時乗用していた前記自動車のタイヤとトレッドショルダー部において一致するものが発見されたこと、被告人の同年一月一五日夜の行動につき、午後八時過ぎころから二時間位の行動、所在が不明であることなどの諸点から被告人の容疑が深まる状況にあつたものの、被告人と本件犯行を直接的に結びつける証拠は何ら発見されず、とくに、昭和四四年二月六日ころから、被告人を犯人との前提の下に、その犯行に供したと見れるような兇器、犯行時着用していたと見れる血痕付着の衣類の捜索が被害者方から被告人方付近までの道路に沿つてなされたか何も発見されなかつたこと(捜査報告書、電話聴取書等、一〇冊一一冊、記録別冊三冊、記録別冊については以下単に別冊という。)

(4) 被告人は、昭和四四年四月一二日別件である詐欺(三事実)銃砲刀剣類所持等取締法違反(一事実)の各被疑事実で逮捕され、同月一五日同被疑事実で勾留され、同月二四日これらについて詐欺(一事実)、準詐欺(一事実)、銃砲刀剣類所持等取締法違反(一事実)で起訴され、更に同年五月一六日別件勾留中として詐欺(二事実)銃砲刀剣類所持等取締法違反(一事実)で追起訴され、身柄拘束のまま審理の結果、同年七月四日別件等については懲役一年、執行猶予三年の判決が言渡されたものであるところ、右別件逮捕・勾留中本件についても取調がなされ、被告人は、当初本件犯行は勿論被害者利則方に立寄つたこと自体も否認していたものの、徐々に、利則方に立寄つたこと、被害者キヨ子と雑談したこと、同女から誘われ肉体関係を結ぼうとしたことを認め出し、同年七月二日同女を殺害した事実を認める供述をするに至つたこと、捜査官は、同月四日同女殺害の被疑事実により逮捕状を請求し、同日、発せられた逮捕状により被告人を逮捕し、同月六日右被疑事実により勾留を請求し、同月七日、発せられた右被疑事実の勾留状により、被告人は鹿児島警察署留置場に勾留されたこと、同月一四日、右勾留期間が同月二五日まで延長され、取調べを受けるうち、同月一九日にはキヨ子に馬鍬の刃で叩かれて倒れている利則の頸部をタオルで絞めたことも自白し、同月二四日の検察官の取調では、利則を殺害する意思でタオルで絞めたことを認め、そして、勾留期間の満了日である同月二五日、被告人は利則、キヨ子夫婦殺害の公訴事実で鹿児島地方裁判所に公訴を提起され、その身柄は本件の第一回公判期日(昭和四四年九月一一日)前である同年八月二六日鹿児島警察署留置場から鹿児島刑務所へ移監されたこと(添付記録(原審弁五八号として取り調べられた鹿児島地方裁判所鹿屋支部昭和四四年(わ)第一九号及び第二一号事件記録)及び本冊一冊、一四冊)

以上の事実が認められる。

(二) 別件捜査の概要並びにその起訴、審理、判決に至るまでの経緯

添付記録及び本件の関係捜査報告書(一〇冊、一一冊、別冊三冊)によれば、

第一図

折尾利則方木戸道並びに宅地内の車てつ痕図(11冊3270,3286丁参照)

昭和57年(う)第114号

(1) 被告人を利則、キヨ子夫婦殺害事件の重要参考人としてそ

の行動、言動、更には生活歴等をも捜査していた捜査官は、詐欺等の被疑事実を発見し、その被疑事実によつて昭和四四年四月九日鹿屋簡易裁判所裁判官に逮捕状を請求してその発付を受け、同月一二日午前一〇時五分、当時神奈川県足柄上郡山北町の建設現場に出稼中であつた被告人を、同郡松田町松田警察署内で後記のような四つの被疑事実で逮捕し、同月一五日、被告人は同じ被疑事実によつて鹿屋警察署留置場に勾留され、同月二四日そのうち三つの事実を公訴事実として鹿児島地方裁判所鹿屋支部に公訴を提起されたこと(同裁判所昭和四四年(わ)第一九号事件)、その後、同年五月一六日、後記のような三つの事実を公訴事実として同裁判所に追起訴され(同裁判所昭和四四年(わ)第二一号事件)、同日、右両事件は併合して審理する旨決定されたこと、同月二三日の第一回公判期日において、被告人は公訴事実全部を認める陳述をなし、検察官請求の証拠すべてに同意等をなし、その取調を終了したこと、しかし、弁護人により、被害弁償未済分につき、その弁償とこれが立証を尽したい、として続行申請がなされ、同年六月一三日の第二回公判期日においては、被告人質問、弁護人の右弁償関係の立証が尽されて、弁論が終結されたこと、同月一八日勾留更新決定がなされ同年七月四日の第三回公判期日において、被告人を懲役一年に処し、三年間右刑の執行を猶予する、などの判決が言渡されたこと、なお、被告人及び弁護人から保釈請求または勾留の取消請求が一度もなされていないこと

(2) 右別件逮捕・勾留事実の要旨は、被告人は

① 昭和三八年九月鹿児島県大崎町の北原商事において、店員に対し代金支払の意思も能力もないのにこれあるように装い、「月賦で支払うから背広を売つてもらいたい」と虚構の事実を申し向け、同人を誤信させ、即時同所で背広上下一着時価一万二〇〇〇円相当の交付を受けて騙取した(当時山下製材所に勤務し、その一月後位に月賦金の一回分一二〇〇円を支払つていることが供述されたためか、この事実は起訴されなかつた)

② 同三九年一〇月ころ鹿屋市のオートバイ修理販売店において、留守番の小学六年生に対し「おじさんはあんたのお父さんも、お母さんもよく知つている。タイヤを一本出してくれ」と持ちかけ、同人をしてタイヤの話がついているものと誤信させ、即時同所で単車用タイヤ一本時価二〇〇〇円相当の交付を受けて騙取した(留守番が「父のいるとき来てくれ」といつているのに、その小学六年生の未成年者である知慮浅薄に乗じて更に右のように詐言を弄して交付させ、後刻被害者の妻がタイヤの返還を求めにくると、車にはめてしまつた代金はすぐ払うからといつて言い逃れ、その後不払いのままであるため準詐欺として起訴される。別件第二回公判廷で起訴後における一八〇〇円の弁償を立証した)

③ 昭和四三年二、三月ころ鹿児島県大根占町の商業牧原直哉方において、同人に対し代金支払いの意思も能力もないのにこれあるように装い、「五五〇〇円のトランジスターラジオを四〇〇〇円にまけろ、代金は二回払として二〇〇〇円だけいれておく、後金はこんど来るとき(約一週間後になる)に支払う」と虚構の事実を申し向け、同人を誤信させ、即時同所でトランジスターラジオ一台時価五五〇〇円相当の交付を受けて騙取した(被告人の父からラジオの安いのがあつたら買つてきてくれと頼まれていたので、右のように申し向けて四八〇〇円に値引してもらい、二〇〇〇円を支払つて自己の購入名下に交付を受け、これを即日父に渡して代金五〇〇〇円を受取つていながら残金の支払をしなかつた。詐欺として起訴され、別件第二回公判廷で被告人は、起訴後父において警察官を通じて残代金を払つた筈である旨述べている。)

④ 法定の除外事由がないのに、昭和四二年一月ころから同四四年一月下旬ころまで自宅において、空気銃一挺を不法に所持していた(鳥撃ち用に所持していた。昭和四四年四月一三日被告人から預つていた者より領置される。銃砲刀剣類所持等取締法違反として起訴される。)

というもので、右事実について逮捕の昭和四四年四月一二日から起訴の同月二四日までの間、被告人の捜査官に対する供述調書が同月一三日付、二二日付、二三日付、二四日付で計四通作成され、参考人の捜査官に対する供述調書が不起訴事実分を除いて一一通作成されており、被告人は取調当初から事実を争わず犯意も認めているが、供述中には生活苦のため結果的に支払えなかつたかのように述べられている部分も存すること

(3) 昭和四四年五月一六日追起訴された別件の公訴事実の要旨は、被告人は

① 同三八年一月鹿児島県大崎町の電器店西前栄方において、同人に対し代金支払の意思も能力もないのにこれあるように装い、「毎月五日の給料日に一〇〇〇円宛支払うから月賦でラジオを売つてもらいたい」と申し向け、同人を誤信させ、即時同所でトランジスターラジオ一台時価八八〇〇円相当の交付を受けて騙取した(月賦代金を全く支払わないまま経過するうち右西前の催促により被告人の妻において同年一一月に二〇〇〇円、同四一年一二月に一〇〇〇円を支払つたものの残金の支払がなく起訴され、別件第二回公判廷で起訴後における四〇〇〇円の弁償(値引を受けて完済)を立証した。)

② 同四二年八月前記大崎町の養蜂業佐元武義方において、同人の妻に対し「二、三日すれば給料を貰つて払うから蜂蜜を貸して貰いたい」と申し向け、同人を誤信させ、即時同所で蜂蜜一瓶時価七〇〇円相当の交付を受けて騙取した(支払が全くなく起訴され、別件第一回公判廷で七〇〇円の弁償を立証した。)

③ 法定の除外事由がないのに、昭和四一年五月ころから同四四年四月一二日まで自宅において、刃渡三一・七センチメートルの刀一振を所持していた(ダム工事現場で車の折れたスプリングにグラインダーをかけて刀に作り、自宅に持帰つて主として鶏肉を料理するのに使用する目的で所持していたもので、右四月一二日被告人の妻から任意提出された。)というもので、右各事実について、別件逮捕の日から追起訴までに被告人の司法警察員に対する供述調書が昭和四四年四月二二日付、二三日付及び五月二日付で、検察官に対する供述調書が同年五月一〇日付で作成され、参考人の司法警察員に対する供述調書が同年四月一二日付(別件本起訴事実関係と共に記載)及び二四日付で、検察官に対する供述調書が同年五月九日付(二通)で作成されており、被告人は事実を争わず犯意も認めているが、供述中には生活苦のため結果的に払えなかつたかのように述べられている部分も存すること、なお、別件第二回公判廷において、裁判官の質問に対し、月賦金の返済意思はなかつたわけではないが生活が苦しいので未払になつた旨述べたが、次の問いで直ちに実際は払う意思はなかつたと思う旨改めていること

(4) 被告人の別件逮捕時の住居は出稼先である神奈川県の建設現場であるが、本来の住所は本籍地の鹿屋市であつてそこに家屋(面積十数坪)と畑(三反五畝位)、雑木林等を持ち妻と五人の子が住んでおり、前科も罰金刑に処せられたことが水産資源保護法違反、道路交通法違反で各一回あるのみで、経歴は農業のかたわらトラックの運転手をしたり、竹材、雑穀などの細々とした商売をしたり、建設現場への運転手兼土工として出稼に出たりしてきたものであること

以上の事実が認められる。

(三) 被告人に対する別件逮捕・勾留中における本件に関する取調

(1) 概要

記録(特に一冊、一二冊、一三冊、一六冊、別冊五冊)によれば、被告人は前記のとおり別件により昭和四四年四月一二日逮捕され、同月一五日勾留されたうえ、同月二四日起訴され、さらには別件と同じ罪名の事実で同年五月一六日追起訴されたのであるが、右逮捕の翌一三日鹿屋警察署に引致されるや、同日より本件の殺人事実について取調を受け、同日対照資料用に陰毛の提出を求められて自己の陰毛二三本を提出し、領置され、翌一四日にはポリグラフによる検査が行われ、その後平均して朝から晩一〇時ころまでの取調を連続的に同年七月四日本件で逮捕されるまで(本件逮捕・勾留中は勿論取調が継続する)八〇日余りもの期間にわたつて行われ、そのなかには警察署外において一〇日間位にもわたり片手錠を施したままの取調を受け、被告人は当初、昭和四四年一月一五日夜利則方へ立ち寄つたこと自体も否認していたものの四月二四日ころこれを認め、同月二六日ころには、記憶をたどりよく詰めて考えると一五日夜は利則方へ立ち寄つてはいない、と述べて撤回し、同年五月二日ころに再び右立寄りを認め、その後また否認に転じ、同年六月四日ころには嘘を言つていましたと断わつて三度右立寄りを認め、同月二四日ころにはキヨ子と同衾しようとしたことを述べ、同年七月二日には遂にキヨ子を殺害した事実を認めるに至つたため同月四日本件の同女に対する殺人被疑事実で逮捕されるに至つたもので、別件逮捕・勾留中に本件に関する司法警察員に対する供述調書が合計二〇通作成されていることが認められる。

(2) 被告人の別件逮捕・勾留中における本件に関する供述調書

記録(一三冊、一六冊)によれば、次表のとおりである。

〈編注:イ表参照〉

なお、被告人の本件逮捕・勾留中における本件に関する供述調書は、別件勾留中の本件に関する自白に引続いて、これに基づき連続的追求の取調により作成されたものであるので、理解の便宜上更に掲記することにする。

〈編注:ロ表参照〉

(3) 被告人に対する別件逮捕・勾留中における本件に関する取調状況

ア 原審第七回、一〇回、二六回、二七回各公判調書中の被告人の供述記載(二冊、七冊)、被告人の当審第一九回公判廷における供述(別冊一〇冊)を総合すると、被告人は別件で逮捕されて鹿屋警察署に引致された日(昭和四四年四月一三日)から本件の取調を受け、そのころから本件で起訴(同年七月二五日)されるまで三月以上にわたりその間四日位を除いて毎日、平均して朝八時ころから夜一一時ころまで、同年一月一五日夜(犯行当夜)の行動を中心として嘘を言うなと怒鳴られるなど厳しく取り調べられ、そのなかで四月いつぱいは朝から晩一二時ころまで警察署長官舎で、五月に入つてからは二、三日ずつ間をおいて一〇日位警察官宿舎で、いずれも片手錠を施し、腰紐を警察官が握り、数人の警察官に取り囲まれた状態で怒鳴られるなどしながら厳しく追求され、五月中旬以降心臓病(左室肥大症、冠不全症)、低血圧症で不眠症となり微熱が続き、それが六月以降不眠・発熱はひどくなり足にむくみもでてくる状態で、取調官はこれらのことを知りながら依然として厳しい取調を続けた旨を述べている。

イ 取調官主任警察官として本件に関し被告人を取り調べた司法警察員浜ノ上仁之助は、原審第四回、当裁判所第四、五、六回各公判調書中同証人の供述記載(一冊、別冊五冊)において、別件逮捕により被告人が鹿屋警察署に引致された当日(昭和四四年四月一三日、同日は夜三〇分間位という)から被告人を本件の被疑者として取り調べ、四月は二週間位日曜日、休日も休むことなく毎日取調を続け(祝日である四月二九日付調書がある)、そのほ

〈イ〉

番号

作成

年月日

作成場所

自白に至るまでの供述事項の要点

1

44 4 14

鹿屋警察署

被害者らとの関係、出稼に出た経緯、44 1 6と44 1 13の被害者方立寄経緯と被告人車の停止位置等

2

16

身上経歴、44 1 6立寄を44 1 3立寄に訂正、一月の三日、一三日ないし一七日の行動経過、被告人車の停止位置等

3

19

被害者らとの交際状況等

4

23

鹿屋警察

署長官舎

44 1 15の行動経過、同日夜小倉肇を乗降させた時刻、場所等

5

24

44 1 15小倉肇を降ろした後午後八時四〇分ころ利則方に同人方木戸口の反対側、車の進行方向の左はしに車を止めたうえ立寄り、利則及びキヨ子と雑談して午後一〇時三〇分ころ利則方を出て帰宅した。

6

29

鹿屋警察署

44 1ころの籾買いをした状況、43 12末に購入した被告人車を44 1 20ころ修理に出したまま取りに行かず購入を取消したこと、44 1 17の被告人車の停止位置等

7

30

44 1 13利則方立寄経緯、44 2 13出稼時携行の衣類及び当時所有の衣類について

8

5 2

44 1 15夜小倉肇を降ろしてから利則方に、その庭と木戸口の境の板垣(扉)のところに車をとめたうえ立寄り、利則から発動機の故障をみてくれといわれ、いらつてみたが駄目だつた。雑談中山田実行が来たがまもなく帰つて行つた。自分は一時間位いて一人で帰つた。

9

7

44 1 10ころないし44 1 14の行動

10

10

44 1 14の行動、44 1 15の行動特に午後八時三〇分ころ籾を積んだ自車を利則方木戸口の庭の入口の板壁(扉)のあるところにとめたうえ立寄り、利則及びキヨ子と雑談した。山田実行が来たといつたのは記憶違である。一時間位いて帰宅した。

11

21

44 1 11ないし44 1 13の行動

12

6 4

今まで44 1 15夜利則方に行つた記憶はない、と言つていたのはうそである、現在は記憶がはつきりしてきたのでありのままを申し上げる。44 1 15夜小倉を降ろしてから利則方に車を県道から木戸口の方にバックで入れ板壁(扉)から四、五メートルの位置(但し添付の被告人作成図面では右板壁(扉)から一〇メートル近く離れている三差交差点より更に遠い県道寄りの位置であり、添付図と右供述記載は一致しない。別紙第一図参照)にとめたうえ、立寄り、一人いたキヨ子と雑談しているうち、情交を求められたが断わつた。そのあと利則が単車で帰つてきて雑談をし午後一〇時過ぎ利則方を出て帰宅した。

13

11

44 1 15夜小倉を降ろしてから利則方に県道から木戸に三間位入つたところに車をとめたうえ立寄るとキヨ子だけいた。同女と雑談しているうち口論となり同女を殴つたところ鼻血を出した。午後一〇時ころ利則方を出たが、そのときまで同人は帰つてこなかつた。

14

12

殆んど前日と同旨の供述記載(この調書のみ作成者及び立会補助者である司法警察員が前後の調書と異なる。)

15

23

身上関係、利則及びキヨ子との交際関係、44 1 3利則方立寄経緯

16

24

44 1 15午後八時一〇分か二〇分ころ利則方に、作図(6 23付)した地点(番号12調書の添付図位置より更に少し県道寄り)に車をとめて立寄るとキヨ子だけがいた。囲炉裏の間で雑談したあと、キヨ子に奥の間に呼ばれて情交を求められ寝床に入つたところ、単車の音がして利則が帰つてきた。自分とキヨ子はあわてて囲炉裏の間に戻つた。キヨ子が利則に「なんで遅かつたか」と言つたことから、同人とキヨ子がけんかになつた。その後のことは記憶がない。読み聞かされた後、車の停止点は県道脇のようにも思うと訂正している。

17

7 2

44 1 15午後八時一〇分か二〇分ころ利則方に、県道から木戸口三間位入つて車をとめたうえ立寄るとキヨ子だけがいた。お茶を飲み、立寄つてから二〇分位したころキヨ子に奥の間に呼ばれて情交を求められたが断つた。それから二人で囲炉裏のところに戻つたころ利則が単車で帰り牛に草をやつてから家に入つた。お茶を飲んでいたが急に利則がキヨ子と関係があるといつて殴つてきた、更に包丁で打つてかかられ右手首に傷を受けたので薪で払いのけて奥の間へ逃げた。追つてきた利則と向い合つているときキヨ子が馬鍬の刃をもつて利則を後ろから叩いた。そこで自分は土間の方へ逃げた。キヨ子が利則を殺してしまつたのでキヨ子の口から共犯にされることをも考え、殺してくれというキヨ子の首をタオルで締めて殺し奥の間にねかせて布団をかぶせた。

18

2

右調書と同旨 利則がもつていた包丁を炊事場にしまい、キヨ子が持ち出し使用した馬鍬の刃(被告人作成図添付)は車に積んで逃げ帰つたが翌日みると車に乗つていなかつたので途中で落ちたと思う。

19

3

キヨ子を殺したのは共犯とみられるからであり、殺してくれと頼まれていない。前日付調書中の一、二点につき明確化等

20

3

利則に切りかかられて受けた右手首の傷のこと、44 1 17夜あとの様子を知りたく、車を県道脇にとめたうえ、木戸の門のあるところまで行つて利則君と呼んでみたことなど

かは日曜日は休むが大体において月曜日から土曜日までの取調を行ない(浜ノ上作成調書の最終日付は同年七月二五日である)日々の取調は平均して午前九時ころから同一二時ころまで、昼食後から午後五時ころまで、夕食後から午後一〇時ころまでの間、一日当り八時間位であつた(右引致の日の本件の取調は三〇分位であり、また別件についての取調中は勿論本件の取調はないことになる)、そして四月ころは公職選挙法違反事件の取調が輻輳したことから鹿屋警察署長官舎で一週間位、警察官宿舎で二、三日位取調を行ない、これら警察署外の取調は畳の間において座机を用い、逃走防止のため片手施したままで行つた旨述べている。なお、当裁判所第五回公判調書中証人浜ノ上仁之助の供述記載では、同証人は前回の供述を変更し、警察署長官舎及び警察官宿舎における取調では片手錠をしていないと思う旨述べるが、この変更供述は前回である第四回公判調書中の供述記載の具体性、明確性並びに被告人の前記供述記載に照らし措信できない。また、警察署外で取調を行なう必要性については、被告人の本件関係の昭和四四年四月二三日付、二四日付各供述調書の作成場所は署長官舎であるが、被告人の別件関係の右両日付各供述調書の作成場所は警察署であり、警察署外で取り調べざるをえない事情はあまりうかがわれないのみならず、逃走の虞についても、別件勾留事実に同種の罪である別件追起訴事実をあわせてみても、警察署外の取調において片手錠を施さなければならないほどのものとは認められず、別件勾留事実と社会的事実、罪質、犯行態様等から関連性が全くなく逮捕・勾留のされていない本件の殺人事実よりする逃走の虞をもつて取調に際し片手錠を施す理由とすることはできないというべきである。

ウ 証人板東秀治(地方公務員)に対する原審裁判所の尋問調書(五冊)によれば、同証人は昭和四四年五月二四日から同年七月四日まで鹿屋警察署留置場で被告人の隣房にいたものであるが、取調のため出房した被告人は夜九時の消灯で在房者が寝てかなりたつてから独房に帰つてくることがしばしばであり、房内では被告人は隅にうずくまつていつも頭をかかえており、とてもつらそうに見受けられたこと、被告人は体の調子が悪いといつて看守に体温計を貸してくれといつたり、「板東君もうすつかりやせてしまつた、体力的に弱つている、殺人は絶対やつていない、いつか疑いを晴らしてやる」と何回も言つていた旨述べられており、この証言は前記の浜ノ上の供述記載、被告人の供述等に照らし信用でき、昭和四四年六月ころ以降被告人は本件の取調のために身体的、精神的に相当に重い疲労状態をあらわしていたものと認められる。

(4) 本件に関する証拠とくに客観的証拠の収集状況

記録とくに本件関係の各種報告書、各回答書、各電話聴取書、各実況見分調書、鑑定物件受発簿写、各領置調書及び各鑑定書(一〇ないし一三冊、別冊一ないし三冊)、原審証人大重五男、同中鶴純郎、同大迫忠雄、同脇信博、同下園菊雄、同矢野勇男、同浜ノ上仁之助及び同新利(一冊)、同浜ノ上仁之助、同中屋敷澄香、同下園菊雄及び同矢野勇男(三冊)、同下園菊雄及び同曽山篤徳(七冊)の各供述記載、被告人の司法警察員に対する各供述調書(一三冊、一六冊)、舩迫ヨシの司法警察員に対する各供述調書(一二冊)、当審証人末次文雄、同下園菊雄(別冊四冊)、同浜ノ上仁之助(別冊五冊)、同児玉武義(別冊一一冊)の各供述記載によれば、

ア 別件逮捕に至るまでの証拠収集状況

昭和四四年一月一八日被害者利則及びキヨ子の殺害死体が発見され、特別捜査本部を設置して捜査活動を展開し、現場の実況見分を行ない、指紋、血痕、毛髪、足跡、車てつ痕等を採取し、現場から衣類、時計その他証拠物を領置し、被害者の親族その他死体発見関係者等を取り調べ、広く地域一帯にわたり聞き込みを行ない、犯人及び証拠を捜査し、犯行日時は同年一月一五日夜と特定しうる状況であり、キヨ子の陰部から利則及びキヨ子以外の人物のものと思料される陰毛一本が採取されるなどしたが、犯人を特定しえず、兇器も鈍器ないし鈍体であろうとされるだけで発見に至らず、その種類の特定もなしえなかつたこと、捜査のなかで被告人の同年一月下旬ころの言動に、ことさら嫌疑を第三者に向けようとするものと思われるような不審なものがあつたり、出産の迫つた妻をおいて同年二月一三日ころ遠く神奈川県の建設現場へ出稼に行つたことや、同年一月一五日午後八時過ぎ利則方近くで小倉肇を降ろしてから帰宅するまで約二時間の被告人の行動が不明であることが浮びあがつてきたが、被告人と犯行を結びつける可能性のある客観的証拠としては、被告人の遺留指紋、血痕、足跡等は発見されず、被告人が当時使用し、その後購入先へ返還されていた軽四輪貨物自動車から犯行に結びつけうるような血痕がみつからず、利則方から被告人方近くまで道路沿いに兇器や衣類等が放棄されていないかと捜索を行つても証拠物は何ら発見されず、ただ同年一月一八及び一九日利則方の庭及び木戸道(別紙第一図中の県道から利則方木戸扉までの約三〇メートルの道路、以下同じ)から採取していた車てつ痕七個の中の一個に、被告人が当時使用していた右車の左前輪タイヤとそのトレッドショルダー部において一致するものがある旨報告されて重要視されたが、同月一六日朝車で利則方へ飼料を配達に行つた農協職員児玉武義の車のタイヤ痕と一致するものが採取されていないことなどから、右被告人車のそれに一致するとされる車てつ痕が同月一五日に印象されたものと断じがたいうえ、被告人は利則方をよく訪問しており、犯行日の車てつ痕と特定しがたい状況にあつたこと、キヨ子の陰部から採取された利則、キヨ子以外の者の陰毛とされる一本が被告人のものとは特定されていないこと、犯行日とされる一月一五日夜の被告人の行動中午後八時過ぎから二時間位の行動が不明であり、利則の行動も同夜八時過ぎ同じ下高隈町の久留ウメ方を単車で出て帰宅の途についたあと全く不明であつて、被告人の右約二時間の行動が問題とされるが、当時は警察技師矢野勇男らの鑑定によれば、利則(の死体)が腕にはめていて打撃を受けた腕時計の停止時刻は一五日午後一一時四五分ころと推定する旨鑑定されている事情もあり(原審第三回公判調書中証人矢野勇男の供述部分中には、利則の胃内残渣物の検査結果からして同人の死亡時刻は大体九時前後ではなかろうかと思う旨の供述が存するが、記録を精査しても同証人が右検査結果について鑑定書を作成していることは認められないし、同証人は右腕時計の停止時刻について一五日午後一一時四五分ころと推定する鑑定をしているのであるが、これと右胃内残渣物の検査結果との関係を何ら解明しておらず、果して同証人が被告人の自白以前において利則らの死亡時刻を大体午後九時前後ころと鑑定していたかについては疑問がある)、以上によればいまだ本件の殺人事実をもつて被告人に対する逮捕状及び勾留を各請求しうる資料(証拠)の収集はなかつたこと

イ 別件逮捕から約一か月間の証拠収集状況

昭和四四年四月一二日別件で逮捕された被告人がその翌日鹿屋警察署に引致されるとその日から被告人を本件の殺人事実の被疑者として取り調べ別件の事実について起訴があつた同月二四日までに本件関係の供述調書が前記の表のとおり五通作成され、同月二四日付調書には、犯行当夜である一月一五日午後八時四〇分ころ利則方に、同人方の木戸口(被告人の捜査官に対する多数の供述調書を検討すると、別紙第一図の県道から利則方入口の木戸板扉まで約三〇メートルの木戸道を木戸口と述べていると解されるところが多い)の反対側、車の進行方向の左はしに車を止めたうえ立寄り、利則及びキヨ子と雑談して午後一〇時三〇分ころ利則方を出て帰宅した旨記載され、同月二六日ころには右一月一五日の立寄り事実を撤回し、さらに同年五月一〇日までに本件関係の供述調書が前記の表のとおり五通作成され、同月二日付調書には、再び一月一五日夜利則方に、同人方の庭と木戸口の境の板扉のところに車を止めたうえ立寄り、利則及びキヨ子と話し、その途中山田実行が来たがまもなく帰つて行き、自分は一時間位いて一人で帰つた旨記載され、同月一〇日付調書には、山田実行が来たといつたのは記憶違いであると訂正したほかほぼ右二日付調書と同内容が記載され、一月一五日夜利則方に立寄り被告人の車のタイヤ痕と一致する車てつ痕が採取された位置までは車を乗り入れていることが述べられたが、利則及びキヨ子と話したあと午後一〇時三〇分ころまでには利則方

〈ロ〉

通し番号

作成

年月日

作成場所

供述事項の要点

21

44 7 4

鹿屋警察署

44 1 15夜の行動及び犯行全般(番号17ないし19の調書と同旨)、逃走帰宅の途中郡境付近で長崎留雄の単車とすれ違つた。

22

10

鹿児島警察署

今年一月に利則方へ行つたのは三日、一三日ころ、一五日、一七日の四回であること、三日、一三日ころ、一五日の各立寄りの経緯経過、犯行状況について。キヨ子の誘いにまけ寝床に入つてまもなく利則が帰宅して露見して打ちかかつてきたこと、腹立ちまぎれにキヨ子を馬鍬の刃で殴つたかもしれないことのほかは前日付調書と同旨

23

16

犯行状況の具体化。 キヨ子を殺して自殺しようと思い、馬鍬の刃でキヨ子の頭を殴り倒れたところをタオルで絞め殺した。自殺の決心がつかないまま逃げ帰つたほか従前同旨。

24

19

キヨ子から馬鍬の刃で叩かれて倒れている利則を本当に死んでいると思つたが、利則が生きかえらないようにと思つて同人の首にあつたタオルでその首を絞めたこと、馬鍬の刃の車への投入れ状況等

25

24

右番号17ないし24の司法警察員に対する自白調書の最終的内容を全般にわたつてまとめたといえる検察官作成の調書。利則に対しとどめをさし完全に殺す意思でタオルをもつて絞め殺した旨自白。本調書中に被告人車の停止位置につき「私は車を折尾方の入口の木戸の所に止め車をおりました」との記載があるが、番号14、16、17、21、22の五調書における44 1 15夜の停止位置の記載及びそれらにおける木戸、木戸口なる語の用法に照らすと、検察官作成調書の停車地点は不明確であり右五通の調書の供述が変更されたものとはいえない。

26

25

44 1 15夜利則方でお茶を飲んだ湯呑、右手首の傷の止血とちり紙のこと

備 考

1 番号1ないし13、15ないし24及び26の各供述調書の作成者及び立会補助者は、いずれも同一司法警察員である。

2 番号1ないし13の各供述調書は、差戻前控訴審において供述の任意性等審査のため取調べられたもので、証拠能力ある証拠として取り調べられたものではない。

3 番号14ないし26の各供述調書は原審において刑訴法三二二条該当書面として取り調べられたものである。

4 番号1ないし13の各供述調書は、原審第四回公判当時未だ検察官に送付されていなかつたものである(一冊三〇六丁)

を出て帰宅し、犯行に関してはその気配をうかがわしめるものすら全く述べられていないこと、被告人の妻舩迫ヨシに対する取調は、被告人が別件逮捕された当日の四月一二日からなされ、別件の事実について起訴があつた日の翌日である同月二五日までの間に供述調書が六通作成されたが、同女は四月一二日付調書では、犯行当夜とされる一月一五日夜は午後一〇時のサイレンをきいてしばらくして被告人が帰宅し、囲炉裏横座に坐り焼酎を飲みはじめた、薪で火をたき出してから被告人が腕からはずして囲炉裏端においた腕時計をみたら一〇時三〇分であつた旨述べられ、爾後の供述調書においても大体その供述が維持されるとともに、被告人の同夜帰宅時の言動、服装、身体等にかわつたところは全く看取されず、一月一五ないし一八日ころ被告人が着ていた衣類で無くなつたものはなく、被告人が二月一三日出稼に出る時持つて行つたもの以外は全部家に置いてある旨述べられており、午後一〇時過ぎから利則の腕時計の停止時刻と推定された午後一一時四五分ころまでの間は被告人は自宅に居たことになつたほか衣類等で処分されたものもないことになり、これを覆えしうる証拠もなかつたこと、別件逮捕と同時ころ被告人及び被告人方から衣類、空叺(一月一五日夜被告人が車に積んでかえつたもの)その他が領置されこれら及び被告人が同年一月ころ使用し購入先に返還していた車について改めてそれぞれ鑑定等が行われたが、利則及びキヨ子の血痕が付着したものは発見されず、別件逮捕により引致された四月一三日被告人からその陰毛二三本の提出を受けてこれを鑑定にまわすと、これとキヨ子の死体陰部から採取された陰毛三本のうち利則及びキヨ子の毛でない一本(いわゆる甲の毛)は類似するところが多いが、甲の毛は捻転屈曲が著しいのに被告人の陰毛はそれが少なく鑑定を嘱託された警察技師大迫忠雄は同一性があるとの鑑定を決しかねており(被告人が本件の犯行を自白した後の昭和四四年七月七日付で鑑定書が作成されている)、車てつ痕に関する鑑定書が同年四月二五日付で作成され、被告人車左前輪のタイヤ痕と現場採取車てつ痕中一個は紋様及び磨耗の形状が符合する、被告人車左後輪のタイヤ痕と現場採取車てつ痕中の一個は同種同型のタイヤによつて印象されたものと認められる旨鑑定されたが、被告人は一月一五日夜利則方に立寄り車てつ痕採取位置を自車で通過したことになる供述をするものの、平穏裡に午後一〇時三〇分ころまでには利則方を出て帰宅したことを述べており、被告人の帰宅時刻が利則のはめていた腕時計の停止時刻と推定される午後一一時四五分ころより相当前の午後一〇時三〇分以前であることになり、これを覆えす証拠もなかつたこと、以上により別件逮捕後本件の捜査を行い、被告人の取調を鋭意連続しても、別件について起訴があつた当時は勿論別件逮捕から約一か月経過したころになつても、いまだ本件の殺人事実をもつて、被告人に対する逮捕状及び勾留を各請求しうる資料(証拠)の収集はなかつたこと(別件逮捕から約一か月の間は勿論被告人の本件犯行の自白以前において利則がはめていた腕時計の停止時刻についての再鑑定並びに利則らの胃内残渣物及び利則の血中アルコール濃度からする死亡時刻の鑑定の委嘱はなされていない)

ウ 別件逮捕から約一か月経過してから後での証拠収集状況

被告人は別件逮捕をされてから約一か月後の五月中旬ころから再び犯行日の一月一五日夜利則方に立寄つたことを撤回し、前記の表のとおり六月四日付調書において三たびこれを認めるに至り、その後前記の表に記載のとおり一人だけいたキヨ子に情交を求められたり、同女を殴つたことを述べたりした後、同月二四日付調書において、キヨ子と寝床に入つたところ利則が帰つてきて利則とキヨ子がけんかになつたことを述べ、同年七月二日付調書において、利則が被告人とキヨ子の間に(肉体)関係があるといつて殴つてきて追いかけられているうち、キヨ子が利則を後ろから馬鍬の刃で叩いて殺してしまつたが、キヨ子の口から共犯にされることを考え、キヨ子の首をタオルで締めて殺した旨遂にキヨ子殺しを自白するに至り、同日及び翌三日には一気に四通の自白調書が作成され、右三日には検察官の取調(調書作成なし)も行われ、翌四日本件の逮捕状が請求されて発付されるに至つたのであるが、別件逮捕から約五〇日経過しても被告人の自白が得られないので、証拠物が処分されたことをうかがわせる新たな具体的資料がでてきたわけでもないのに、三月一四日で一応打切られていた犯行現場から被告人方に至る道路の両側及び付近一帯の山林、畑、やぶ等の捜索を再開し、これを五月三〇日、六月八日、九日、一一日、一八日、二〇日、二六日及び二八日と行つたが、被告人の犯行であるとうかがわしめる客観的な証拠は何も発見されず、鑑定等を委嘱された警察技師等の被告人と関係ある物件についての鑑定書等の作成提出は五月中旬以降であつても、鑑定等の結果についての概略は電話等で五月中旬ころまでには警察技師等から聴取していたものと考えられるものが殆んどであり、五月一三日付の被告人のタビックス三足、六月一一日付の被告人方から採取した毛についての各鑑定申請も四月一二日の別件逮捕当時充分押収しえたような物件についての申請であるのみならず、新たに犯行との関係が出てきたためになされた申請とは認めがたく、被告人の自白がなされるや急拠被告人の陰毛といわゆる甲の毛の対比鑑定書が作成され、利則の腕にはめていた時計についても部外鑑定に付され、また自白に基づいて兇器の捜索、同種の馬鍬の刃の領置等がなされ、そして被告人の別件勾留状が七月四日に刑の執行猶予の言渡で失効することが予想される直前頃の六月下旬ころから脇かづ子、小倉肇、久留ウメ等参考人の供述調書が作成される状況であり、以上を総合すると右五月中旬以降七月二日の自白に至るまで被告人の犯行をうかがわしめる新たな客観的証拠は加えられず、被告人の取調は専ら別件勾留を利用した本件の取調であり、その捜査の重点は極めて大きく被告人の自白を追求するものであつたといえるものであり、かかる取調による被告人の供述調書を既存の収集証拠にあわせても、別件逮捕から、二か月経過した六月中旬当時において、いまだ本件の殺人事実をもつて被告人に対する逮捕状及び勾留を請求しうる資料(証拠)の収集はなかつたこと

以上の事実が認められる。

(四) 本件逮捕・勾留中作成の被告人の供述調書

記録(とくに一冊、一三冊、一四冊、別冊三冊)によれば、被告人に対しては前記昭和四四年七月二日付、三日付各供述(自白)調書等を資料として同月四日本件のキヨ子に対する殺人事実により逮捕状の発付を受け、同日別件勾留状が失効して釈放されると即日右逮捕状により逮捕を行ない、同月六日右殺人事実による勾留請求をなし、翌七日同事実の勾留状が発せられ、同月一四日勾留期間を同月二五日まで延長され、同月四日から同月二五日までの二二日間に前記の表のとおり六通の供述(自白)調書が作成され、その間同月一九日には利則の首をタオルで絞めたこと、同月二四日には殺意をもつて利則の首を絞め殺害したことなどを自白し、同月二五日、キヨ子及び利則に対する殺人の事実で起訴がなされたのであるが、右六通の供述(自白)調書は、別件勾留中に取り調べて作成された右七月二日付、三日付各供述(自白)調書に基づいて、それと社会事実的に同一性を有する事実内容の詳細・具体化を八〇日余りにわたる別件逮捕・勾留中の取調に連続した取調のなかで行なう取調によつて作成されたものであることが明らかであり、また、別件逮捕・勾留中の取調状況からすると、本件逮捕・勾留は実質的に逮捕・勾留の繰り返しともいいうるものであり、そのもとで作成された本件逮捕・勾留中の被告人の供述調書である。

(五)  被告人に対する別件の逮捕・勾留を利用した本件に関する取調の違法性

(1)  一般に甲事実について逮捕・勾留した被疑者に対し、捜査官が甲事実のみでなく余罪である乙事実についても取調を行うことは、これを禁止する訴訟法上の明文がなく、また逮捕・勾留を被疑事実ごとに繰返していたずらに被疑者の身柄拘束期間を長期化させる弊害を防止する利点もあり、一概にこれを禁止すべきではない。しかしながら憲法三一条が法の適正な手続の保障を掲げ、憲法三三条、三四条及びこれらの規定の具体化している刑事訴訟法の諸規定が、現行犯として逮捕される場合を除いて、何人も裁判官の発する令状によらなければ逮捕・勾留されないこと、逮捕状・勾留状には、理由となつている犯罪が明示されなければならないこと、逮捕・勾留された者に対しては直ちにその理由を告知せねばならず、勾留については、請求があれば公開の法廷でその理由を告知すべきことを規定し、いわゆる令状主義の原則を定めている趣旨に照らし、かつ、刑事訴訟法一九八条一項が逮捕・勾留中の被疑者についていわゆる取調受忍義務を認めたものであるか否か、受忍義務はどの範囲の取調に及ぶか等に関する同条項の解釈如何にかかわらず、外部から隔離され弁護人の立会もなく行われる逮捕・勾留中の被疑者の取調が、紛れもなく事実上の強制処分性をもつことを併せ考えると、逮捕・勾留中の被疑者に対する余罪の取調には一定の制約があるといわなければならない。そして例えば、いまだ逮捕状及び勾留の各請求をなしうるだけの資料の揃つていない乙事実(本件)について被疑者を取り調べる目的で、すでにこのような資料の揃つている甲事実(別件)について逮捕状・勾留状の発付を受け、甲事実に基づく被疑者としての逮捕・勾留、さらには甲事実の公判審理のために被告人として勾留されている身柄拘束を利用し、乙事実について逮捕・勾留して取り調べるのと同様の取調を捜査において許容される被疑者の逮捕・勾留期間内に、さらにはその期間制限を実質的に超過して本件の取調を行うような別件(甲事実)逮捕・勾留中の取調の場合、別件(甲事実)による逮捕・勾留がその理由や必要性を欠いて違法であれば、本件(乙事実)についての取調も違法で許されないことはいうまでもないが、別件(甲事実)の逮捕・勾留についてその理由又は必要性が認められるときでも、右のような本件(乙事実)の取調が具体的状況のもとにおいて憲法及び刑事訴訟法の保障する令状主義を実質的に潜脱するものであるときは、本件の取調は違法であるのみならず、それによつて得られた被疑者の自白・不利益事実の承認は違法収集証拠として証拠能力を有しないものというべきである。

(2)  そして別件(甲事実)による逮捕・勾留中の本件(乙事実)についての取調が、具体的状況のもとで令状主義の原則を実質的に潜脱するものであるか否かは、①甲事実と乙事実との罪質及び態様の相違、法定刑の軽重、並びに捜査当局の両事実に対する捜査上の重点の置き方の違いの程度②甲事実と乙事実との関連性の有無及び程度③取調時の甲事実についての身柄拘束の必要性の程度④乙事実についての取調方法(場所、身柄拘束状況、追求状況等)及び程度(時間、回数、期間等)並びに被疑者の態度、健康状態⑤乙事実について逮捕・勾留して取り調べたと同様の取調が捜査において許容される被疑者の逮捕・勾留期間を超えていないか⑥乙事実についての証拠、とくに客観的証拠の収集程度⑦乙事実に関する捜査の重点が被疑者の供述(自白)を追求する点にあつたか、物的資料や被疑者以外の者の供述を得る点にあつたか⑧取調担当者らの主観的意図はどうであつたか等の具体的状況を総合して判断するという方法をとるのが相当というべきである(大阪高等裁判所昭和五九年四月一五日判決、高刑集三七巻一号九八頁参照)

(3) これを本件についてみるに、前記事実関係からすれば、

ア 別件の逮捕・勾留事実(詐欺等四事実)は、その罪質、罪数、態様、被告人の当時の住居(神奈川県下の建設現場)等からみて逮捕・勾留の理由及び必要性は一応認められるが、本件殺人の事実と比較して、その法定刑がはるかに軽いのはもとより、その罪質及び態様においても大きな違いのある軽い犯罪であるだけでなく、昭和四四年一月一八日被害者両名の殺害死体発見以来特別捜査本部を設置して一大捜査活動を展開して約八〇日間にわたつて捜査を続けてきた捜査官らの関心は、別件の逮捕状及び勾留の各請求をなすにあたり、別件よりも主として本件殺人の事実の解明に向けられていたといわざるをえないこと

イ 別件の逮捕・勾留事実と本件の殺人事実とは、罪質、被害者、犯行日時、場所、犯行態様をいずれも異にして関連性がなく、右逮捕・勾留事実の取調と本件の殺人事実の取調の間に一方の取調が他方の取調にもつながるというような密接な関係も存しないこと

ウ 別件の逮捕・勾留事実については、逮捕状及び勾留の各請求にあたり罪質、罪数、犯行態様、住居等からみて逮捕・勾留の理由及び必要性は一応認められ、昭和四四年四月二四日そのうち三つの事実が詐欺、準詐欺、銃砲刀剣類所持等取締法違反として起訴され、さらに同年五月一六日逮捕・勾留事実外ではあるが罪質、犯行態様等を同じくする詐欺等三事実について追起訴されているが、被告人はその取調に対し当初から事実を争わず犯意も認めていたといいうるものであり、前科も罰金刑に処せられたことが二回あるのみで、本来の住所は本籍地で家のある鹿屋市内にあつて妻と五人の子がそこに住んでいること、同月二三日の別件第一回公判廷において被告人は右両起訴の全事実についてこれを認め、検察官の立証が終り、弁護人の求めで弁償のために続行され、同年六月一三日の別件第二回公判廷で被告人質問及び弁償の立証等がなされ、起訴された詐欺、準詐欺の各事実については全部弁償がなされたことになつたといいうることなどに照らすと、別件の勾留の理由及び必要性は同年四月二四日別件の起訴によつて或程度減少し、別件第一回公判期日の終了によつて更に少なくなり、別件第二回公判期日の終了後には極めて少ないものとなつていたと考えられること

エ しかるに別件逮捕・勾留中の被告人に対する本件の殺人事実についての取調は、取調主任警察官の証言及びこれに相反しない範囲の被告人の原審及び当審公判廷における供述部分によつてすら、被告人が別件の逮捕により鹿屋警察署に引致された当日である昭和四四年四月一三日から始められ、四月中は二週間位休日もなく連続して、五月ころ以降は大体において日曜日を除いて連続的に、平均して朝から晩一〇時ころまでの間に一日当り八時間位(別件関係の供述調書が作成された四月一三、二二、二三、二四日、五月二、一〇日には本件の取調時間はその分少なくなる)の密度の高い取調が恒常的に八〇日余りの期間にわたつて続けられ、このうち四月ころは約一〇日間にわたり警察署長官舎及び警察官宿舎の畳の間で座らせて、勾留事実関係からすれば逃走の虞も認められないのに、片手錠を施したまま右のような取調を行つていたものであり、前記事実関係からすれば、本件の殺人事実についての取調は別件の逮捕・勾留を利用してなされ、別件の起訴(四月二四日)までは本件を主とし別件を従とし、別件に関連する追起訴事実に関する被告人の最終調書が作成された同年五月一〇日ころまでは本件の取調にその殆んどをあて、その後は専ら、本件の取調にあてて長期間連続的、日々長時間行われ、しかも警察署外で片手錠を施したまま行われたことを含むものであること、そして被告人は同年六月ころからは相当に重い身体的、精神的疲労状態をあらわしてきており、そのことは取調官に自明であつたといえるものであり、被告人が本件の殺人事実に関する取調を拒絶する態度に出なかつたのは、逮捕・勾留事実以外の、しかもそれと全く関連性がない本件の殺人事実について、その取調を受忍する義務のないことを知らなかつたためであるといえること

オ 本件殺人事実につき逮捕・勾留がなされたとしても、その身柄拘束下において捜査官が取調できる期間は刑訴法上、せいぜい二三日間位であり、この期間内に起訴できなかつたときは被疑者は釈放されなければならないものである。しかるに本件殺人事実について捜査官は別件逮捕・勾留を利用して前記のような本件の殺人事実について逮捕して取り調べると同様の取調を右二三日間を超えて、八〇日余りの間にわたつて行つたのみならず、最後に至つて自白が得られるや、更にこれを資料として本件殺人事実につき逮捕状の発付を受けて逮捕し(七月四日)、勾留の請求(七月六日)をなし、改めて二二日間も取調べて本件殺人事実の起訴(七月二五日)を行つたものであること

カ 本件の殺人事実の捜査については、その事実と被告人を具体的に結びつけうる証拠が収集されなければならないが、①昭和四四年四月一二日の別件逮捕以前においては、客観的証拠としては、同年一月一八、一九日利則方の庭及び木戸道等から採取した車てつ痕七個の中の一個に被告人が当時使用していた軽四輪貨物自動車の左前輪タイヤとそのトレッドショルダー部において一致するものがある旨報告されていたが、犯行日とされる同月一五日の翌朝利則方を訪れた他車の車てつ痕が採取されず、被告人もよく利則方を訪問していてこれが犯行日の被告人車の車てつ痕であるとは特定しがたい状況にあつたこと、同月一八日キヨ子の死体陰部から採取された陰毛三本中に利則及びキヨ子以外のものと思料される一本(いわゆる甲の毛)があり、犯人のものではないかとの疑いはあるものの、被告人のものだとまでは特定されていなかつたこと、利則の腕につけられていた腕時計等により犯行は同月一五日夜とされ、被告人の同夜の行動中午後八時過ぎから二時間位の行動が不明であつたが、右腕時計の停止時刻は一五日午後一一時四五分ころと鑑定されている事情にあつたこと、右のほか被告人と本件の犯行を結びつけうる客観的証拠は収集されておらず、被告人の言動等から疑いをかけるものの到底、本件の殺人事実をもつて、被告人に対する逮捕状及び勾留の各請求をなしうる程度の資料(証拠)の収集がなかつたこと、②別件逮捕から約一か月間については、車てつ痕に関する鑑定書が提出され、被告人車左前輪のタイヤ痕と採取車てつ痕中の一個との符合が明示されたほか、被告人車左後輪のタイヤ痕と採取車てつ痕中の一個とが同種同型であることが示され、被告人は右一月一五日夜利則方を訪れ右二個の車てつ痕の採取位置あたりまで車で乗り入れている供述はしたものの、平穏に午後一〇時三〇分以前に帰宅したことを述べており、妻舩迫ヨシの取調によつても被告人が同夜午後一〇時過ぎころ帰宅したことは認めざるをえないものであつたこと、別件逮捕の翌日被告人からその陰毛二三本の提出を受けてこれを鑑定にまわすと、これと右いわゆる甲の毛は類似するところが多いが、甲の毛には捻転屈曲があつて双方の同一性を決しかねている事情にあつたこと、被告人及び被告人方から領置した衣類その他から利則及びキヨ子の血痕の付着したものは発見されず、被告人が衣類その他について右一月一五日ころ以降処分した事実もうかがわれず、いまだ本件の殺人事実をもつて被告人に対する逮捕状及び勾留の各請求をなしうる程度の資料(証拠)収集がなかつたこと、③別件逮捕から約一か月経過してから後については、別件逮捕から八〇日余り後の本件の殺人事実についての自白に至るまで、被告人の犯行であることをうかがわしめるような新たな客観的証拠の収集はなく、再び犯行日の一月一五日夜利則方に立寄つたことを撤回した被告人を追及し、同年六月四日に至り三たび立寄り(平穏裡に利則方を出て帰宅した旨述べる)を認めさせ、同月二四日にはキヨ子と寝床に入つたことや利則とキヨ子がけんかになつたことを述べさせ、同年七月二日には遂に利則の死亡、キヨ子の殺人について自白させるに至つたもので、その自白をもつてようやく被告人の陰毛といわゆる甲の毛の対比鑑定書が作成され、利則の腕時計について部外鑑定に付されるという状況であり、別件逮捕から約二か月経過した六月中旬においては、被告人の犯行であることをうかがわしめる客観的新証拠の収集は五月中旬以降これといつてなく、被告人の供述調書を他の収集証拠にあわせても、なおまだ本件の殺人事実をもつて被告人に対する逮捕状及び勾留の各請求をなしうるだけの資料(証拠)の収集がない状況であつたこと

キ 別件逮捕・勾留の当初は被告人側から陰毛・着衣その他本件の殺人事実との関連性が考えられる物の任意提出を得て鑑識・鑑定に付し、また、妻舩迫ヨシ等の供述調書を作成するなどの捜査があつたことは認められるが、前記被告人に対する取調状況、証拠の収集状況からすると、本件の殺人事実に関する捜査の重点は当初から相当に大きく、昭和四四年五月中旬以降は極めて大きく、被告人の供述(自白)の追求に向けられていたといえること

ク 本件の殺人事実の捜査を指揮した大重五男、被告人に対する本件の取調の主任警察官であつた浜ノ上仁之助ら捜査関係者は、別件逮捕で鹿屋警察署に引致された昭和四四年四月一三日から同年七月四日本件逮捕に至るまで別件逮捕・勾留を積極的に利用した本件の殺人事実に関する被告人の取調その他の捜査を行つてきており、捜査指揮者・取調主任者らは別件逮捕の当初から本件の殺人事実の自白に至るまで別件の逮捕・勾留を、いまだ逮捕状及び勾留の各請求をなしうるだけの資料(証拠)の揃つていない本件の殺人事実の取調に利用しようという意図を有していたものといえること

以上の諸事由が認められ、これを踏まえて考察すると、別件逮捕・勾留中の被告人に対する本件の殺人事実についての取調は、いまだ逮捕状及び勾留の各請求をなしうるだけの資料の揃つていない重大事犯である本件の殺人事実について被告人を取り調べる目的で、本件の捜査中資料も揃つてきた関連性の全くない軽い事犯である別件の詐欺等の事実について逮捕状及び勾留状の発付を受け、別件逮捕・勾留は、その理由及び必要性が一応認められ、その事実について取調がなされて昭和四四年四月二四日起訴されているけれども、それ以後は別件の公判審理のための勾留であり、勾留の理由及び必要性が高いとはいえない事案であるのにその勾留を利用し、被告人が別件逮捕で引致されるやその日から本件の取調に入り、別件の起訴前から本件の殺人事実の取調を主とし別件を従とする取調を行ない、別件起訴後同年五月一〇日ころまでは別件同種余罪の取調を若干なしたものの殆んどを本件の取調にあて、同月中旬以降は専ら本件の取調をなし、その取調状況は平均して朝から晩一〇時ころまで、四月中は二週間位休日もなく連続し、五月以降は大体において月曜日から土曜日まで連続してといえる八〇日余りの期間にわたる長時間、長期間、連続的なもので、そのうち四月後半ころは約一〇日間にわたり警察署長官舎等の畳の間で座らせて、勾留事実関係よりすれば逃走の虞もないのに片手錠を施したまま取り調べ、別件逮捕から一か月経過してもいまだ本件の逮捕状及び勾留の各請求をなしうる証拠の収集がなく、同年五月中旬以降は被告人の犯行であることをうかがわしめるような客観的新証拠の収集がなく、六月中旬に至つてもいまだ本件の逮捕状及び勾留の各請求をなしうる証拠を収集しえず、被告人はかかる任意の取調といいがたい取調を受忍する義務のないことを知らず致し方なく取調を受け、同年六月ころからは相当重い身体的・精神的疲労状態をあらわしているなかで、本件の殺人事実について逮捕・勾留して取り調べると同様の取調を、捜査において許容される逮捕・勾留の期間的制限を実質的に大きく超過して行ないつつ、被告人の供述(自白)を追求したものであるということができ、被告人に対する本件の殺人事実に関する取調の具体的状況に照らし、原審判決が有罪認定の証拠として掲げる被告人の司法警察員に対する各供述調書(左記の七通と後記の六通計一三通)のうち別件逮捕・勾留中(しかも別件逮捕から二か月以後)に作成された昭和四四年六月一二日付、二三日付、二四日付、七月二日付(二通)、三日付(二通)計七通(前記表の番号14ないし20)の供述調書が作成されたときの取調は、任意捜査の限度を超え違法であるにとどまらず、憲法及び刑事訴訟法の保障する令状主義を実質的に潜脱するものであり、捜査官が事案の真相を究明すべく職務に精励したことを認めるにやぶさかでないが、かかる取調のもとで作成された右被告人の供述調書七通は司法の廉潔性の保持及び将来における同様の違法な取調の抑制という見地から違法収集証拠としてその証拠能力は否定されるべきである。

(4)  次に本件の(キヨ子に対する)殺人事実についての逮捕・勾留中に作成され、原判決が有罪認定の証拠として掲げる被告人の司法警察員に対する各供述調書に該当する昭和四四年七月四日付、一〇日付、一六日付、一九日付、二五日付各調書及び被告人の検察官に対する(同月二四日付)供述調書以上合計六通(前記の表の番号21ないし26)は、前記証拠能力がないとされる被告人の司法警察員に対する同月二日付(二通)三日付(二通)各供述(自白)調書等を資料として逮捕状の発付を受け、別件の勾留状が失効するや間髪を入れずに逮捕し、更に勾留状の発付を受けた本件の逮捕・勾留中に右各供述(自白)調書に基づいて、それと社会事実的に同一性を有する事実内容の詳細具体化を順次連続して追求した捜査官の取調によつて作成されたものであることが明らかであることにかんがみると、本件逮捕・勾留中に作成された右被告人の供述調書六通も前記別件逮捕・勾留中の取調の重大な違法性を承継具有する取調のもとで作成されたものと認められるので、前記(3)記載の供述調書七通と同じく違法収集証拠としてその証拠能力は否定されるべきである。

(六) 原判決に影響を及ぼす訴訟手続の法令違反

本件においては、右証拠能力を否定された被告人の供述調書一三通は、被告人と犯行を結びつける具体的内容を有する唯一の直接証拠であり、これを除外した原判決挙示の各証拠によつては原判決の罪となるべき事実を認めるに至らないものである(差戻判決四丁参照)。右各証拠中には被告人の勾留質問時の陳述録取調書の自白が存するが、被告人の裁判官に対する昭和四四年七月七日付陳述録取調書(一三冊三七九二丁)によれば、被告人は、キヨ子に対する殺人の勾留請求の被疑事実につき「事実はそのとおり間違いありません」と述べているが、これは前記のような同年四月一三日からの取調を受け遂に同年七月二日捜査官に対し自白し、更に同月三日、四日と自白調書が作成され、自白の詳細、具体化の取調が行われている時期の陳述であり、しかも右のような簡単なもので具体的内容がないうえ、後記のように被告人の捜査段階における自白に信用性が認められないことからすると、右被告人の陳述に証拠能力は認められても信用性は認められない。

してみると、以上のような違法収集証拠として証拠能力のない被告人の司法警察員及び検察官に対する供述調書一三通を任意捜査の範囲内にとどまる取調で作成されたものとして証拠能力を否定せず、これを有罪認定の証拠とした原判決には訴訟手続の法令違反があり、本件の証拠関係に照らすと、右違反が判決に影響を及ぼすことは明らかである。論旨は理由がある。

第三  事実誤認の主張並びにこれに対する当裁判所の判断

一被告人及び弁護人らの事実誤認の主張

各所論は要するに、

1原判決が被告人の本件自白の裏付けとされる①原判決にいわゆる「甲の毛」及びその鑑定、②本件犯行現場近くから採取された車てつ痕、③本件犯行現場で被告人が負つたとされる被告人の右手首の外傷痕については、次に述べるような疑問があり、捜査段階における被告人の自白を裏付ける証拠価値がないものである。

(一) 「甲の毛」及びその鑑定について

原審須藤鑑定人は、被害者キヨ子の陰部から採取された原判決にいわゆる「甲の毛」は、対照用として被告人自身が任意提出した陰毛と同一人の陰毛である旨鑑定しているのであるが、しかし、右須藤鑑定人が鑑定の資料としたいわゆる「甲の毛」は、キヨ子の陰部から採取された原判決にいわゆる「甲の毛」であるかどうか疑問があり、対照用として被告人が任意提出した陰毛のうちの一本が「甲の毛」として鑑定されたのではないかの疑問が存するものである。即ち、

(1) 鹿児島県警察本部刑事部鑑識課勤務警察技師大迫忠雄(以下、警察技師大迫という。)は、昭和四四年一月一九日、本件犯行現場で、被害者キヨ子の陰部から原判決にいわゆる「甲の毛」を採取したのであるが、右大迫及び同じく警察技師である矢野勇男の昭和四四年五月三〇日付連名作成名義の鑑定書並びに右大迫作成の同年七月七日付鑑定書に示された「甲の毛」と、科学警察研究所(以下科警研という。)警察庁技官須藤武雄(以下、警察庁技官須藤という。)が鑑定の資料とした「甲の毛」とは、その形状、長さ、色調、毛先部の状況において差異があり、それは、右大迫・矢野鑑定書並びに右大迫鑑定書によれば、「甲の毛」の形状たる捻転、屈曲は″著しい″とあり、その長さは七・五センチメートル(以下センチメートル、ミリメル、キロメートルについてはいずれもメートルを略する)、色調は毛幹うす茶、毛先わずかにうす茶、毛先部の状況は針状と記載されているのに、右須藤鑑定書には、その添付された写真からすれば、「甲の毛」は捻転、屈曲の殆んど見られないものであり、その長さは七・三センチ、その色調は茶色、毛先黒色、毛先部の状況は「折断・不整」と記載されている。

(2) 被告人は別件で逮捕された日の翌日である昭和四四年四月一三日、対照用として陰毛二三本を任意提出したのであるが、警察技師大迫において右二三本を保管中、そのうち五本が所在不明となり、後日同人において、右五本の陰毛を発見したとして検察官を通じて原審に提出したが、その五本の毛髪は、第三次須藤鑑定により陰毛ではなく頭毛であることが判明しているもので、右所在不明となつた五本の行方は明らかでないものである。右(1)(2)の事実からすれば、所在不明の陰毛五本の中の一本が、キヨ子の陰部から採取された「甲の毛」として須藤鑑定の対象とされたのではないかの疑問が存し、とすれば、原判決にいわゆる「甲の毛」及びこれと被告人の陰毛は同一人のものではないかと推定される、とする須藤鑑定はいずれも証拠価値がないといわなければならない。

(二) 車てつ痕について

本件犯行日とされる昭和四四年一月一五日夜、被告人が使用していた軽四輪貨物自動車によりその車てつ痕が印象されたかどうか疑問がある。即ち、昭和四四年一月一八日、一九日の両日に利則方前私道上から採取された車てつ痕の中から、被告人車のそれと「同種同型のもの」(一八日採取分)及び「紋様、磨耗の形状の符合するもの」(一九日採取分)が発見されたとされているところ、同月一六日と一八日には降雨があり、右降雨量のいかんによつては、同月一五日に印象された車てつ痕がその紋様の対照可能な状態で後日採取できるか否か問題である。このことは、同月一五日夜、バイクで帰宅したと思われる被害者利則の使用したバイクの車てつ痕が発見されておらず、また、同月一六日朝、農協職員児玉武義は軽トラックで飼料等を積み被害者利則方を訪れ、その庭を回つているのに、その車てつ痕が発見されていないことからもいえるものである。右二回の降雨の量及び降雨による車てつ痕の変容の可能性の有無等を明らかにしないまま、車てつ痕の同一性に関する寺田鑑定の資料とされた右採取車てつ痕が同年一月一五日に印象されたと認定することは、被告人の弁解(同年一月一七日車で利則方行つた旨主張している。)に照し許されないというべきである。

(三) 被告人の右手首の外傷痕について

原判決は、鹿児島大学教授城哲男作成の昭和四四年七月二二日付鑑定書、原審第一五回公判調書中の証人城哲男の供述部分、医師春別府稔作成の国民健康保険診療録(写)、原審証人春別府稔に対する受命裁判官の尋問調書により、被告人の右手首の外傷瘢痕は鋭利な刃先又は刃尖にて擦過されたものであるとの事実を認め、右事実と被告人の捜査官に対するその関係供述部分とにより、右外傷瘢痕は、被告人の本件犯行の際、被害者利則から包丁で斬りかかられ受傷したという事実を認定し、そして、右外傷瘢痕は昭和四三年九月三日の単車を運転中惹起した交通事故によるものであるとの被告人の供述は採用しがたいとしている。しかしながら、原審証人城哲男自身、傷がいつついたものか数か月経過すれば明確にしがたい旨述べ、また、右交通事故の際診療した春別府医師作成の診療録(写)には被告人の病名として「頭・頸、左腕部打撲症及び顔面左胸部、右前腕擦過傷」とのみ記載されているが、概念的には右手首は右前腕に包含されるから、同医師が傷害の範囲の広い「右前腕擦過傷」のみをカルテに記載し、比較的軽微で部位及び症状がこれと近似している「右手首切創」の記載を落とすということもあり得ないわけではないと考えられるし、もし仮りに、犯行当夜被告人が負傷したものとすれば、傷の位置からして衣類に当然に血痕が付着するはずであるにも拘らず、血痕の付着した衣類は発見されず、また、犯行当夜一〇時すぎごろ、被告人が自宅へ戻り、それから一時間位妻ヨシと話をし飲酒したのであるが、同女は被告人の受傷その他何の不自然さも見受けなかつたものであるから、被告人の右手首の外傷瘢痕は、右交通事故の受傷によるものであり、昭和四四年一月一五日ころに負傷したものでないというべきである。

2被告人の自白については、①それが真実であれば当然その裏付けが得られて然るべきであると思われる事項に関し、客観的な証拠による裏付けが欠けている。即ち、現場遺留指紋の中から、被告人の指紋が一つも発見されていない。被告人の身辺から人血の付着した着衣等が発見されていない。犯行に使用された兇器が発見されていない。とくに、右兇器について捜査官は意図的に馬鍬の刃を本件犯行の兇器としようとしたことが窺われるものである。また、②証拠により認められる客観的状況と被告人の自白が矛盾し、③証拠上明らかな事実につき説明が欠け、④被告人の自白の内容には不自然、不合理な点が多く、自白信用性が認められないものである。

3犯行時刻については、昭和四四年一月一六日被害者両名を見たという者もおり、本件犯行は同日夜行われたものである。仮りに、同月一五日夜本件犯行が行われたとしても、利則が左手首にはめていた時計の停止時刻、利則が食した物の胃内容物の消化状況、飲酒したアルコールの体内残存濃度からすれば、利則は同日午後一一時ころ殺害されたとみるのが相当であり、一方、被告人は、同日夜一〇時ころには帰宅していたものであるから、被告人にはアリバイが成立する

というのである。

二事実誤認の主張に対する当裁判所の判断

当裁判所の判断は、先ず被告人と本件犯行を具体的に結びつける唯一の直接証拠といえる被告人の捜査官に対する自白調書の記載内容を示し、次いで右自白を裏付けるとされる客観的証拠の証拠価値、当然に存すべき右自白の裏付け証拠等の問題点につき判断を示してゆくこととする。

1被告人の捜査段階における自白内容

被告人の司法警察員に対する昭和四四年七月の二日付(二通)、三日付(二通)、四日付、一〇日付、一六日付、一九日付、二五日付各供述調書(一三冊)及び被告人の検察官に対する同年七月二四日付供述調書(一三冊)によれば、被告人は本件に関し大略次の如く述べている。

昭和四四年一月一五日午後八時二〇分ころ、鹿屋市下高隈町上別府部落に所在する脇かづ子方(その所在位置別紙第三図参照)から買つた籾一俵を車の荷台に積み、同女方を出発し、その途中、同じく上別府部落内に所在する新原清則方前の墓付近の県道上で同町田方部落の小倉肇を乗せ、同人方近くで同人を降ろし、同日午後八時三〇分ころ、その車で田方部落に所在する利則方へ立寄つた。そのとき車は県道から利則方木戸道へ、三間位入つた処にとめた。炊事場横の出入口から入つたところ、キヨ子が一人囲炉裏の膳棚側に座つていた。キヨ子の向い側囲炉裏の大黒柱側に上り座つた。同女がお茶を出したので飲んだ。お茶請は梅干だつた。二、三〇分位話した後、同女が六畳間に誘つた。肉体関係の誘いだつた。同間には、敷布のない敷布団が敷いてあつた。誘惑に負け、床に入り、ズボンを下し、同女の上に乗つた。同女はパンツを脱いでいた。そうするうちに利則が帰つてきた。しまつたと思い、寝床の中からはね起き、ズボンを上にあげながら六畳の間納戸側障子の陰に隠れた。同女は四畳半の間の方に出て行つた。自分の事で利則と同女との間に争となり、利則は同女を殴つた。同女が可哀相になつたので、自分も二人の所へ出て行つた。利則はものすごいけんまくで自分に殴りかかつてきた。相争ううち、利則は自分に叶わないと思つたのか炊事場から包丁を持ち出し、囲炉裏の大黒柱のところに居た自分に切りかかつてきた。自分は殺されると思い囲炉裏にあつた薪を持つて応じた。しかし、このとき右手首に傷を受け、持つていた薪を土間に投げ、六畳間に逃げた。利則が追つてきたので同間で逃れられないと思い、敷いてあつた寝床の端より納戸側に立つて利則と向い会つた。このようなとき、キヨ子が「やめてくれ」と言つて入つてきた。利則はキヨ子に「ここにくるな、お前も斬り殺すぞ」と怒鳴つた。すると、キヨ子は利則の後頭部を何かで殴つた。それで自分も利則の顔を殴り、利則がふらふらしていたので利則から包丁をもぎ取つた。自分は、その包丁を持ち、四畳半の方に出て出て、包丁を囲炉裏脇の板張りのところに投げてから、囲炉裏の横座にきたとき、右手首を斬られていたので持つていたちり紙で手当した。その間にも、キヨ子と利則は六畳間で喧嘩していた。悲鳴は主に利則の方から聞こえた。静かになつたので、六畳間に行こうと思い、四畳半と六畳間の境の障子付近まで行つたとき、キヨ子が一人で六畳間から出てきて「殺してしまつた。」と言つた。同女をみると、馬鍬の刃を持つていた。腹が立ち、馬鍬の刃を取り上げ、「何で殺すのか」と言い、空いている方の手でキヨ子の顔を殴り、「自分でやつたことは自分で始末せよ。」と言うと、キヨ子は六畳間に入つて行つた。自分もどのような状況だろうと思い、キヨ子の後について行つた。利則は縁側(南側)を頭にして敷いてある布団の向う側にうつ伏せに倒れており、全く動く気配がなかつた。そのとき、キヨ子が「生き返らんようにしてくれ。」と言つたような気がした。そこで、利則が生き返えれば当然自分も共犯とされるだろうと思い、利則を殺そうと決意した。利則をみると首にタオルをマフラーのようにしてかけているのが判つたので、それで絞め殺そうと考えたが、利則の体は余りにも縁側の方に寄りすぎており、首を絞めるのに不便だつたので、利則の足を持ち真中の方に引きずり出した後、頭の方にまわり、タオルを取り上げ、前からまわし後からねじるように絞めた。タオルはそのままにしておき、キヨ子が、利則の死体の上に部屋の隅においてあつた敷布団と掛布団をかけた。そして、自分とキヨ子は三畳間の囲炉裏の方に戻り、キヨ子に板張りのところに置いていた包丁を片付けるよう言つた。キヨ子が炊事場へ行つて包丁を片付けているとき、犯罪が発覚するのを恐れ、キヨ子を殺そうと決心した。囲炉裏の横座にタオルが転がつていたので、それを拾い上げたのち、包丁の始末をして上がつてきたキヨ子を六畳間に連れて行つた。床の間付近にきたとき、不意に持つていた馬鍬の刃でキヨ子を数発殴つた。夢中だつたのでどこを殴つたか分らない。キヨ子は敷いてあつた布団の上に利則とは反対方向にうつ伏せに倒れたが身動きをしていた。それで、とどめをさすべく持つていたタオルをキヨ子の首にまわし、後からねじるようにしてキヨ子が動かなくなるまで絞めて殺した。そして、布団を上からかぶせた。それから、囲炉裏の間に戻つたが、幸い返り血はあびていない様子であり、手にも血はついていなかつたので、馬鍬の刃を持ち、炊事場横の出入口(前記かまど南側の出入口)から家を出た。馬鍬の刃は途中で捨てるつもりで運転席横から車の荷台に置いた。午後一〇時を過ぎたころ利則方を出て自宅へ帰る途中、郡境付近で単車に乗り大崎町方向から鹿屋市下高隈町方面へ向う長崎留雄と会つた。そして同じく郡境のガードレール付近で馬鍬の刃を捨てようと思い、車を停めて荷台を見たら馬鍬の刃は落ちたのかなかつた。家に帰り晩酌をした、というものである。

2原判決にいわゆる「甲の毛」等の証拠価値について

(一) 原判決にいわゆる「甲の毛」の形状に関する昭和四四年五月三〇日付矢野・大迫鑑定、同年七月七日付大迫鑑定及び同年七月一七日付須藤鑑定

(1) 昭和四四年五月三〇日付矢野・大迫鑑定

原審第二回公判調書中証人大迫忠雄の供述部分(一冊一一一丁)によれば、鹿児島県警察本部鑑識課に勤務していた警察技師大迫は、昭和四四年一月一九日本件現場でキヨ子の陰部から三本の毛を採取し大重刑事課長にこれを見せてから自分の資料袋に入れて鑑識課に持ち帰つた(この毛三本の領置関係は後記(五)(1)アのとおりであり、大迫技師は領置権限のある司法警察職員に領置手続をしてもらい、その者から鑑定のため交付を受けるなど証拠物の取扱について厳重な手続をふまないで持ち帰つているといえる)のであるが、その採取当初からうち一本(原判決にいわゆる「甲の毛」)は非常に濃く、固く、荒く、捻転の多い毛で二本とは一見して区別できる毛だつたものであり、右三本の毛につき、警察技師矢野勇男、同大迫忠雄連名作成の昭和四四年五月三〇日付鑑定書(一一冊、三二九三丁裏)には、資料第二八号の二折尾キヨ子の陰部に付着の毛三本中①そのうち二本は、黒色の光沢のやや良い長さ四・七及び五・二センチの捻転屈曲のやや少ない湾状毛で、毛髪検査法に基づき検査した結果、キヨ子の陰毛に類似する、②キヨ子の陰毛に類似しない他の一本(「甲の毛」)は長さ七・五センチ、光沢の良い湾状毛で捻転屈曲が著しい、毛根が付着し抜去されたもの、毛根の色素の沈着は中等度うす茶色、髄質は毛幹部にわずかに断続してみられ、毛先部は針状になりわずかにうす茶色、人の腋毛又は陰毛で折尾利則及び同キヨ子の毛髪とは類似しない旨鑑定されていたこと、

(2) 昭和四四年七月七日付大迫鑑定

警察技師大迫忠雄作成の昭和四四年七月七日付鑑定書(一一冊三二九〇丁裏)には、原判決にいわゆる「甲の毛」と被告人が別件で逮捕された日の翌日任意提出した「舩迫清の陰毛二三本」との比較対照において、①「舩迫清の陰毛二三本」中、完全な形態のものは二一本、毛髪は黒褐色、光沢よく硬い、浅広波状乃至湾状毛、長さ最長八・三センチ、最小六・八センチ、毛髪の色調は灰味黒茶色乃至明るい茶色、髄質はやや不規則な連続状のものと不規則な断続したものがみられ、毛根側は色素沈着が少ない、毛幹部(差戻後控訴審(以下、当審という)第二回公判廷において大迫証人は毛先部と訂正、別冊四冊一一丁)の形状は棒針状のものと針状のものがあり、針状のものは二三本中五本であつた、②「舩迫清の陰毛二三本」の毛髪検査に基づき検査し、前記「甲の毛」と対照検査するに、毛髪の形状、色調、髄質の形状、毛根側の色調及び形状等はよく類似し同一性を認める、毛髪の捻転屈曲において、「甲の毛」は著しく、「舩迫清の陰毛二三本」は少ない、毛髪は同一人の陰毛であつても発生部位において捻転屈曲等多少の差が認められるものである旨鑑定されたこと、

(3) 昭和四四年七月一七日付須藤鑑定

右のように、捻転屈曲において差異があるとのことから、鹿児島県警本部鑑識課は、あらためて「甲の毛」と「舩迫清の陰毛二三本」中の若干本との同一性を確認するためこれらを科警研に送付して鑑定を依頼したところ、警察庁技官須藤武雄は、昭和四四年七月一七日付作成の鑑定書(一一冊三三〇八丁。以下、「第一次須藤鑑定」という。)において、①「甲の毛」は波状毛、長さ七・三センチ、太さは毛根部九〇μ(ミュー、千分の一ミリメートルであるミクロンの記号)、毛幹部九〇ないし一五〇μ、毛先は三五μ、毛根部はコルベン状を示し抜去毛の所見がみられる、髄質は毛幹部において断続状、小皮紋理は横行波状ジグザグの屈曲ある紋理が認められるヒト陰毛と認められる、②「甲の毛」を「舩迫清の陰毛二三本」中の若干本と比較してみると、髄質はいずれも割合に細く断続状である、捻転屈曲がよく似てる、毛幹における色素顆粒の分布状態、小皮紋理の状態が似ている、毛の表面に非常に稀な横の亀裂が両者にみられ、これは、個人的特徴である(大迫は六か月近く多数の他の毛と対比検査を行ないながら、発見していない)、などとし、「甲の毛」と「舩迫清の右陰毛」は同一人のものでないかと推定される旨の鑑定をなしたこと、なお、「甲の毛」とされる一本を含む陰毛三本は、原審第一四回公判廷で取調のうえ領置(原審昭和四四年押第八六号の符号五。原審押収の証拠物はすべて当裁判所昭和五七年押第一〇号において原審と同一符号をもつて押収している)されたこと。

(二) 「舩迫清の陰毛二三本」のうち所在不明となつた五本について

(1) 原審に「甲の毛」及び「舩迫清の陰毛二三本」中の一八本が提出され、右二三本のうち五本が不足していることが問題となり、その不足分として毛髪五本が提出されるに至つた経緯

関係各証拠によれば、警察技師大迫は「甲の毛」とともに「舩迫清の陰毛二三本」を保管、管理し、その間、前記のとおり、昭和四四年五月三〇日付矢野・大迫の、同年七月七日付大迫の、同年七月一七日第一次須藤鑑定がなされたこと、被告人は同年七月二五日本件で起訴され原審で審理を受けるようになり、「舩迫清の陰毛二三本」に関しては原審第一三回公判廷(昭和四七年一一月三〇日)で陰毛一八本(鹿児島地方検察庁昭和四四年領第五九三号符二〇号)として証拠調請求され、第一四回公判廷(昭和四七年一二月二六日)においてその取調があり原審に領置されたこと(原審昭和四四年押第八六号符号六)、昭和四八年に至り陰毛五本の行方が問題とされるようになり、検察官を通じてその旨警察技師大迫に伝えられ、結局、同人が所在不明となつていたものとして検察官に提出した毛髪五本等につき、原審第二〇回公判廷(昭和四八年八月二八日)で証拠調請求がなされ、同公判廷において取調べられ、原審に領置されたこと(原審昭和四四年押第八六号符号九)、その後、右五本は、後記のとおり、第三次須藤鑑定により人の頭髪と認められるとの鑑定がなされたこと、

(2) 「舩迫清の陰毛二三本」中の所在不明五本に関する警察技師大迫の原審における説明

右所在不明五本の陰毛につき、右大迫技師は、後記第三次須藤鑑定がなされる前ではあるものの、原審第一九回公判廷(昭和四八年七月一〇日、四冊一〇七三丁)において証人として次のように述べていたものである。即ち、「舩迫清の陰毛二三本」は陰毛若干として鑑定申請され、自分が鑑定する段階で数えたら二三本あつたので、前記昭和四四年七月七日付鑑定書には二三本と書いた、科警研へ送つた本数は何本送つたかはつきりしないが、第一次須藤鑑定書添付写真1からみると、送つたのは二一本であり、残り二本は他の資料と比較対照するため自分の下に置いた、科警研から返還されてきた「舩迫清の陰毛二三本」中の若干本と自分の下に置いていた二本の陰毛を一緒にして保管していたところ、鹿屋警察署(以下、警察の二字を略する)から取りにきたので、自分はその保管していたのを全部だろうと思い返した。しかし、昭和四八年に至り、「舩迫清の陰毛二三本」のうち五本が所在不明となつているとの連絡を検察官から受けたので探したところ、舩迫清の毛五本が他の毛とともにガラス板に貼られ鑑識課の標本箱の中に入れてあるのが見つかつた、従つて、鹿屋署に返すとき五本は自分の下に置いたまま一八本を返したと思う、対照用資料はいつでも手に入るとの気持からその本数には余りこだわらない、しかし、現場から採取された鑑定資料の場合はそのような扱いはしない、本件の場合、犯行現場から毛三本が採取されたので、そのまま小さい封筒に入れのりづけして、資料採取用の付票にも記載して保管しているもので、他のものと混じるようなことは絶対にない、

右のとおり説明していたこと、

(三) 鑑定人須藤の第二次、第三次鑑定(不足分として提出された五本が人頭毛であつたこと)

警察庁技官須藤は、原審公判段階において再度鑑定を命ぜられ、被告人が再度昭和四八年六月二一日原審第一八回公判廷において任意提出した陰毛一五本(原審昭和四四年押第八六号符号八の一ないし三)、「舩迫清の陰毛二三本」中の一八本及び「甲の毛」を含むキヨ子の陰部付着の三本の毛とされる毛を比較検討した結果、「甲の毛」は右六月二一日に任意提出した被告人の陰毛一五本に極めてよく類似し、ほぼ同一人に由来するものと推定される、右被告人の陰毛一五本と右舩迫清の陰毛一八本は同一人に由来するものと思料する旨の鑑定書を昭和四八年九月二七日付で作成し(以下、「第二次須藤鑑定という、四冊一二六三丁)、更に、X線マイクロアナライザーによる新たな鑑定の手法をもとり入れ鑑定の結果、「甲の毛」と「舩迫清の陰毛二三本」中の一八本のなかの一五本(三本は従前の鑑定により費消ずみ)、前記昭和四八年六月二一日任意提出された一五本中の一二本(三本は従前の鑑定により費消ずみ)の陰毛とは互によく類似し、同一人に由来するものと推定される、また、前記所在不明であつた分の五本としての毛髪五本(原審昭和四四年押第八六号符号九)はいずれも人頭毛であるとの鑑定をなしたこと(昭和五〇年一二月二二日付鑑定書、以下、「第三次須藤鑑定」という。九冊二六七八丁)

以上の事実が認められる。

(四) 差戻判決の指摘

差戻判決は、「舩迫清の陰毛二三本」のうち五本が、のちに警察技師大迫の手中で所在不明となつて公判廷に顕出されなかつたばかりでなく、その後同人が右所在不明の陰毛を発見したとして検察官を通じて原審に提出した五本の毛髪が第三次須藤鑑定の結果陰毛ではなく頭髪であると判明したこと、そのうえ、前記矢野・大迫鑑定及び大迫鑑定と第一次須藤鑑定とを対比すると、前二者に記載された「甲の毛」の外見・形状が、その長さ、捻転・屈曲の点などにおいて、後者に記載されたそれと微妙な違いのある状況も看取されること、これらの諸点に徴すると、陰毛の保管、鑑定の責任者である右大迫において、その保管する被告人提出の陰毛の一部を紛失し、しかも他の毛髪を紛失した陰毛であるとして後に提出するに至つた経緯等につき首肯しうる説明をするのでない限り、右紛失した陰毛の一部がキヨ子の死体の陰部から採取された陰毛の中に混入し、「甲の毛」として須藤鑑定の資料とされたのではないかという疑いを否定することはできないものというべきであり、須藤鑑定の資料とされた「甲の毛」が現にキヨ子の死体の陰部から採取された「甲の毛」と同一のものであると断定することは許されず、第一次ないし第三次須藤鑑定の証拠価値には疑問があるといわなければならない。

右のとおり指摘している。

(五) 当裁判所の事実調

(1) 陰毛の採取、保管等に関する事実調

ア 司法警察員中屋敷澄香作成の領置調書(一三冊、三八五三丁)には、折尾長吉により、昭和四四年一月一九日、毛髪三本(以下、「遺留毛三本」という。)が任意提出され、これを警察官たる右中屋敷が領置したかの如く記載され、また、当裁判所昭和五七年(押)第一〇号符号一二鑑定物件受発簿(特に昭和四四年一月二一日受付関係)、矢野・大迫連名作成の昭和四四年五月三〇日付鑑定書(特に一一冊三三〇一丁裏参照)によれば、右遺留毛三本は領置した鹿屋署より鹿児島県警察本部に鑑定申請のため送られたかの如く処理されているものの、しかし、実際には、当審第二回公判調書中証人大迫忠雄(別冊二冊一丁)、同第九回公判調書中証人中屋敷澄香(別冊七冊一〇六八丁)の各供述部分によれば、右遺留毛三本は、本事件の発覚した翌日である昭和四四年一月一九日に警察技師大迫によりキヨ子の死体の陰部から採取され、右領置調書は、右大迫の採取に立会つた鹿屋署警察官中屋敷澄香により、利則の父折尾長吉を差出人として後日作成されたこと(前記証人中屋敷澄香は、昭和四四年一月一九日右折尾長吉が現場に立会つていたかの如く述べるものの司法警察員作成昭和四四年二月二〇日付実況見分調書(一〇冊二九三四丁)記載の右一九日の立会人が折尾長吉でないことなどに照し措信しがたいものである。)、また、当審第二、第一二回各公判調書中証人大迫忠雄の供述部分(別冊四冊三丁、同九冊一四九三丁)、当裁判所の証人大迫忠雄に対する昭和五九年五月一一日取調の尋問調書(別冊七冊一一三七丁)、当審受命裁判官の検証調書(別冊七冊一〇三六丁)によれば、警察技師大迫は、遺留毛三本をその採取した現場で採取するのに用いたガーゼにくるんだまま小封筒(普通の郵便封筒位の大きさ)に入れ、糊で封をして、資料小票に必要事項(採取年月日、キヨ子の死体の陰部から採取された毛髪三本という意味の資料名)を記載して貼り、ショルダーバックに入れ所持し、採取した当日は死体解剖がなされたこともあり、鹿屋市内に宿泊し、翌二〇日、鹿児島市内に所在する鹿児島県警察本部鑑識課へ持参し、右小封筒のまま同鑑識課内にある定温器(孵卵器)(資料を人体と同程度の温度で保存する器)に入れ保管し、翌二一日から対照資料毛との比較対照を始めたのであるが、その方法は、右定温器内の小封筒から遺留毛三本をとり出し、これをガラス板に張りセロテープで留め、そのガラス板には鑑定申請番号、資料番号を記載したインデックスを貼り、対照資料毛との対照を始め、その対照が終ると、遺留毛三本は右のようにガラス板に張つたまま白紙に包み、前記資料小票の貼つてある小封筒の中に納め、鑑定申請警察署名、その申請番号、申請年月日を記載した大封筒に入れ、その大封筒を同鑑識課内のキャビネットに入れ保管していた旨指示及び供述していること、

イ 他方、右アに掲記の各証拠に大迫忠雄作成の昭和四四年七月七日付鑑定書(一一冊三二九〇丁裏)を総合すれば、「舩迫清の陰毛二三本」は昭和四四年四月一三日付で鹿屋署より鹿児島県警察本部に鑑定申請され、翌一四日同警察本部鑑識課に受理されたこと(前記鑑定物件受発簿中特に昭和四四年四月一四日受付関係)、警察技師大迫は同日より右陰毛の鑑定にかかり、まず、右陰毛を三群に分け、同一のガラス板に張りセロテープで留め、そのガラス板には「舩迫清の陰毛」と書いたインデックスを貼り、検査が終つた後は、右のようにしてガラス板に張つたまま白紙に包み小封筒に入れ、その小封筒の表面には「舩迫清の陰毛」と書き、鹿屋署から送つてきたときの大封筒(鹿屋署名、その申請番号申請年月日の記載がある。)に入れ、前記キャビネットに保管しており、遺留毛三本と「舩迫清の陰毛二三本」との対照は昭和四四年四月一四日ころから始められたのであるが、その対照方法は両方とも前記のようなガラス板に貼つたままで行ない、ガラス板から取りはずした状態で対照検査するということはなく、またその検査が終つた後は両方とも前記の如く、そのガラス板を白紙に包み小封筒及び大封筒に入れキャビネットで保管していた旨述べていること、

ウ 右ア、イに掲記の各証拠に、第一次、第二次須藤鑑定書を総合すれば、警察技師大迫は、遺留毛三本との対照を終つた「舩迫清の陰毛二三本」関係の毛を鹿屋署の要請により同年六月一九日同署に返還し、そして、同年七月七日付鑑定書を作成したのであるが、遺留毛三本のうちの一本(「甲の毛」)と「舩迫清の陰毛二三本」とがその捻転屈曲の点で差異があり、同一人の陰毛かどうか断定できず、そのため科警研へ再鑑定を依頼するようになり、大迫技師は、鹿屋署よりその返還していた「舩迫清の陰毛二三本」関係の毛を取り寄せ、「甲の毛」とともに科警研へ持参したこと、科警研では警察庁技官須藤がその比較対照を行ない同年七月一七日付で鑑定書を作成し、その後、「甲の毛」、「舩迫清の陰毛二三本」中の若干本は鹿児島県警察本部に返還されたこと、そして警察技師大迫は、「甲の毛」、「舩迫清の陰毛二三本」中の若干本、遺留毛のうち「甲の毛」以外の他の二本を第二次須藤鑑定書添付写真(四冊一二七三丁)の如く厚手の白紙に貼りつけこれを保管しているとき、鹿屋署よりこれを引取りにきたので、同年八月一二日これを引渡した旨証言していること、その後右各毛は鹿屋署から検察官に送付され原審第一一回及び第一三回公判廷においてそれぞれ証拠調請求され、いずれも第一四回公判廷において取調領置されたこと

以上各事実が認められる。

(2) 所在不明とされている陰毛五本に関する警察技師大迫、警察庁技官須藤の説明

ア 警察技師大迫は、当審第二、第三、第一二ないし一四回各公判調書中証人大迫忠雄の供述部分(別冊四冊、五冊、九冊)及び当裁判所の証人大迫忠雄に対する昭和五九年五月一一日取調の尋問調書(別冊七冊)において、「甲の毛」と「舩迫清の陰毛二三本」関係の毛を比較対照するときは前記(1)記載のような方法でなしたもので、「舩迫清の陰毛二三本」関係の毛の一本が遺留毛三本と混同するはずはなく、また、昭和四四年六月一九日、「舩迫清の陰毛二三本」関係の毛を鹿屋署に返還したときの状況、同年七月九日か一〇日ころ、「甲の毛」及び「舩迫清の陰毛二三本」中若干本を科警研へ持参したときの情況は次のようであつたもので、両者が混同しすりかわるということはない旨説明する。

即ち遺留毛三本との対照検査が終つた「舩迫清の陰毛二三本」関係の毛は昭和四四年六月一九日、鹿屋署からの要請により同年四月一四日送つてきた他の資料とともに同署に返還した、その返還方法は、ガラス板に張りつけた「舩迫清の陰毛二三本」中の完全毛二一本を取りはずし、これを白い厚手の白紙に張り、それに警察署名、申請番号、申請年月日、資料名を書き、白い表紙にはさみ小封筒に入れ、これを鑑定対象外として別の白い紙に包んだ右二三本中の不完全毛二本をその他の資料とともに大封筒(鹿屋署から同年四月一四日送つてきたもの)に入れ返還した、(前記尋問調書一〇九、一一〇項別冊七冊)また、同年七月七日付で科警研へ鑑定を依頼するようになつたのであるが、翌八日付で鑑定申請書を作成すると同時に、キャビネットに前記の如く保管していた遺留毛中の「甲の毛」をガラス板から取りはずし、これを白い厚手の紙に張り、証一号と番号を打ち、キヨ子の陰部から採取された毛一本と資料名を書き、白表紙の二つ折した中にはさみ込み、周辺をセロテープで留め、その上に資料小票を添付して必要事項を記載してキャビネットの中に保管し、一方、その後鹿屋署から送つてきた「舩迫清の陰毛二三本」関係の毛については前記六月一九日に返還したときの状態で送つてきたが同署の申請番号などが書いてあつたので、厚手の白紙からとりはずし、これを三群に分け一つのガラス板に張り、そのガラス板にはインデックスをつけ、白紙に包んでから中封筒に入れ資料小票をつけ証二号とし、そして、昭和四四年七月一〇日、これらを直接科警研へ持参した(同尋問調書四二二項ないし四三一項)、「舩迫清の陰毛二三本」関係の毛のうち何本宛を右のように三群に分けガラス板に張りこれを科警研へ持参したか記憶していないが、第一次須藤鑑定書添付の写真(一一冊三三一一丁)をみると送つたのは二一本である、残りの二本は、自分が作成した昭和四四年七月七日付鑑定書をみると、舩迫清の陰毛二三本中完全な形態のもの二一本、毛先部(毛幹部とあるを当審第二回公判調書中の証人大迫忠雄の供述部分四〇、四一項で毛先部と訂正)の形状は棒針状のものと針状のものがあり、針状のものは二三本中五本であつた、との記載があり、このことから完全でない毛二本とは毛根部のない毛であることが分り、結局、右不完全毛二本を検査対象から除外しており科警研へ送つていない(当審第二回公判調書中証人大迫忠雄の供述部分七二ないし八四項別冊四冊)、昭和四八年になり検察庁から「舩迫清の陰毛二三本」のうち五本が足りないとの連絡を受けたが、須藤第一次鑑定が終了して返還されてきた後自分は一応全部鹿屋署に返していると思つたので最初はそのように返事した、しかし、その後どうしても資料がないとのことだつたので捜した、すると、自分が研究用として資料を置いている標本箱の中にガラス板に舩迫清の記名のある毛が見つかつた、それをよく確かめないで検察庁へ持つて行つた。そして、それが人頭毛であることを昭和五七年ころ知つた(同公判調書中同証人の供述部分一六九ないし二〇一項)、科警研へ持参した「舩迫清の陰毛二三本」関係の毛若干本は、前記のとおり、毛根部のない不完全毛二本を除いた完全毛二一本であり、「甲の毛」は毛根部のある完全毛で、従つて、右不完全毛二本が「甲の毛」と混同しすりかわることはない(同公判調書中の同証人の供述部分一四七ないし一五〇項)、旨述べ、

イ 警察庁技官須藤は、証人須藤武雄に対する当裁判所昭和五八年一〇月一四日取調の尋問調書(別冊六冊七九一丁)において、鹿児島県警察本部から届けられた「舩迫清の陰毛二三本」関係の毛若干本は第一次須藤鑑定書添付の写真をみると二一本である、形態学的検査の後、髄質あるいは色素顆粒の分布状態を見るため髄質検査を行なつた、同検査はガラス板の上に毛を置きバルサムを入れ上からガラスで封じて行なうのであるが、対照用資料である「舩迫清の陰毛二三本」関係の毛若干本は二本を使用した、しかし、あとでその二本はバルサムをつけガラスで封じたまま廃棄した(同尋問調書一二五ないし一二八項)、髄質検査の後解離試験法により血液型検査を行なつたが、同方法は毛を金槌で叩きつぶして行なうものであるから、その使用した部分の毛は元に戻らない、証一の「甲の毛」については中ほどを約四センチメートル位切り取り行なつたが、証二の「舩迫清の陰毛二三本」関係の毛若干本についてはうち一本全部を使用した(同尋問調書一四八ないし一六三項)、証一の「甲の毛」と証二の「舩迫清の陰毛二三本」関係の毛が混同しすりかわることは絶対にない、結局、鹿児島県警へ返した「舩迫清の陰毛二三本」関係の毛は二本を廃棄、一本を消費してしまつたので一八本である(同尋問調書一七四、一七五項)、旨述べている。

(3) 形状とくに捻転屈曲に関する警察技師大迫、警察庁技官須藤の説明

ア 警察技師大迫は当審第一二ないし第一四回各公判調書中証人大迫忠雄の供述部分(別冊九冊)において次のように述べるものである。

昭和四四年一月一九日被害者キヨ子の陰部から「甲の毛」一本ほか二本を採取し、同月二一日ころそれらを検査すると、「甲の毛」の形状は捻転屈曲が著しかつた。同年四月一三日付で鹿屋署から鑑定嘱託を受けそのころ資料として受取つた「舩迫清の陰毛二三本」と「甲の毛」を比較対照し始めたが、四月段階では「甲の毛」の形状に変化があり、「甲の毛」はまつすぐ伸びて捻転屈曲の少ないものとなつていた(一二回公判大迫証言一〇〇ないし一三三項別冊九冊)。キヨ子の陰部から採取した毛髪三本の鑑定書(矢野・大迫共同作成)を書いた同年五月三〇日ころの時点でも「甲の毛」については捻転屈曲は少なくなつていた。それにもかかわらず同年七月七日付鑑定書に「甲の毛」は捻転屈曲が著しいと書いたのは、同年一月二一日の時点で検査したときの検査記録に捻転屈曲が著しいと書いてあり、形状が変つたのは、ガラス板に甲の毛を張つていた関係で捻転屈曲がなくなつたと考えたからである(一三回公判大迫証言一〇四ないし一〇九項、別冊九冊)。同鑑定書に、鑑定は同年一月二一日着手同年七月二日終了と書いたのも右のように「甲の毛」について同年一月二一日の検査結果があつたからである(一二回公判大迫証言一三四ないし一三七項)。現在は「甲の毛」は生来的に捻転屈曲のある毛とは思つておらず、同年一月二一日段階で「甲の毛」に捻転屈曲が著しかつたのは、自分の保管方法が悪かつたからと考える、即ち、ガーゼにくるんで採取したものを、普通の郵便封筒位の大きさの中に曲げこんで押し込み、それを持ち帰り、三六度から三七度の温度のある孵卵器(定温器)の中に入れておいたから捻転屈曲の著しい毛になつたと思う(同一六二ないし一七五項)、昭和四四年の四月ころは人工的に捻転屈曲ができること、その人工的にできたものは伸ばして張つておつたりすると消えるということは知らなかつた(第一四公判大迫証言三四六項別冊九冊)、そこで、そのころ、人工的にできるものと天然性のものの違いにつき須藤先生にきいたように思う(同三四九ないし三五五項)、しかし、「甲の毛」が同年一月二一日段階で捻転屈曲が著しく同年四月一四日以降の段階でなくなつていたということは須藤先生には伝えていないと思う(同三六〇ないし三六四項)、旨述べ

イ 警察庁技官須藤は、証人須藤武雄に対する当裁判所昭和五八年一〇月一四日取調の尋問調書(別冊六冊七九一丁)において、警察技師大迫の鑑定は「甲の毛」は捻転屈曲が著しいといつても計数的に正確に捻転屈曲を述べているものではないから、自分が(第一次須藤鑑定において)「甲の毛」と舩迫清の陰毛は「捻転屈曲の度合がよく似ている。」と表現しているのとは、表現上の違いはあるがそんなに差はないと思う(同調書一八六、一八七項)旨述べている。

(六)  まとめ

(1)  「舩迫清の陰毛二三本」中所在不明とされていた五本について

当審証人大迫忠雄、同須藤武雄が前記のようにそれぞれ述べるところ(供述記載)からすれば、「舩迫清の陰毛二三本」中所在不明の五本は、大迫において不完全毛として科警研へ送つていない二本(現在は所在不明)と須藤において廃棄または消費した計三本の合計五本となるかのように見られ、そして、右不完全毛二本は毛根がないのであるから、毛根部のある完全毛である「甲の毛」と混同することはなく所在不明とされていた五本の毛のうちの一本が「甲の毛」に混同しすりかわつたりするようなことはありえないといえるかの如くである。

しかし、当審証人大迫は、他方において、その残した毛は対照用として残したのか不完全毛で必要がないということで残したのかよく分らない、どのような毛を残したかも記憶がない、結局、第一次須藤鑑定書添付の写真から科警研へ送つたのは二一本と分り、自分が作成した昭和四四年七月七日付鑑定書をみると「舩迫清の陰毛二三本」は全部で二三本、不完全毛二本との記載があり、右のことから二本残したことが分つた(当審三回公判大迫証言一三九項ないし一五三項、別冊五冊)旨、述べている状況であり、そして、原審においても証人として、前記「原審における大迫の説明」のように同人は、自己が作成した右鑑定書第一次須藤鑑定書を見ながら、「舩迫清の陰毛二三本」中科警研へ送つたのは二一本である、残り二本は対照用として残した、と述べるが、残した二本が不完全毛であるとの説明は一切していないし対照用に残すならば完全毛を残すのが合理的ともいえる。同じ資料に基づいての説明でありながら、原審と当審では右のような喰違いをみせている。また、当審証人大迫は前記のように「甲の毛」及び「舩迫清の陰毛二三本」関係の毛につき、その都度ガラス板や厚手の白紙に張り資料名等を記載した旨など厳重な取扱いぶりを述べるが、その通り厳格に履践していたものであれば、科警研へ鑑定を依頼するにあたり舩迫清の陰毛の本数が記載されて送付され、第一次須藤鑑定書においてもその旨が記されると共に、鹿児島県警察本部の大迫から受取つたままの資料の状況が写真撮影されるものと思われるのに、第一次須藤鑑定書においては、「舩迫清の陰毛若干」とのみ記載され、写真も資料一号(「甲の毛」、以下このまとめにおいて須藤一次鑑定に送付される以前を「甲の毛」とし以後を「甲の毛」とする。したがつて、裁判所に押収された前記符五号陰毛三本中の「甲の毛」とされる一本(数次の鑑定で消費ずみ)も「甲の毛」とすることになる。)資料二号(舩迫清の陰毛若干)が並列された実物大の写真から始まり、大迫から受取つたままの資料状況の写真を欠いているし、第一次須藤鑑定が終つて資料が返還されてきた際大迫証言のように資料の各毛を整理したのであれば、舩迫清の陰毛が何本になつているか確認され、そして廃棄、消費関係にも気づいて明確にされ、後日所在不明問題が生起し、頭髪五本を陰毛であるとして提出するようなことなど惹起することはなかつたであろうと考えられ、当審証人大迫の述べるところ(供述記載)は直ちには信用しがたい。

次に、当審証人須藤武雄の前記供述記載については、なるほど第一次須藤鑑定書によれば、血液型検査のため「舩迫清の陰毛二三本」中の一本が使用されたことは認められる。しかし、髄質検査のために使用した二本を廃棄したとの記載はなく、第二次、第三次須藤鑑定においても同じように髄質検査がなされていることが窺われるのであるが、「舩迫清の陰毛二三本」につき第二次、第三次鑑定後の残存本数からみると、それらの鑑定においては、髄質検査のために使用した右陰毛が廃棄された形跡は窺えず、また、須藤証人は、「舩迫清の陰毛二三本」中五本の所在不明が問題にされ始めた昭和四八年六月二一日の原審第一八回公判廷において(大迫技師は同年七月一〇日の原審第一九回公判廷において右所在不明五本の陰毛につき証人として調べられている。)、第一次須藤鑑定書をみながら、「舩迫清の陰毛若干」とは二三本位のように記憶している(四冊一〇一六丁)、と答え、鑑定のため送つてきた資料は全部返したかの質問に対し、「はい、返しました。」と答え(同冊一〇三三丁裏)、その後、須藤証人は、原審において、第三次須藤鑑定によりガラス板にはさまれた毛五本(資料Bの丁)がヒト頭毛と認められた後の昭和五〇年一二月二五日尋問される機会を持ちながら、所在不明の五本の陰毛についてはこれを明らかにしようとはせず、差戻判決の中で問題点として指摘された後である当審において初めて須藤証人は、届けられた舩迫清の陰毛二一本のうち二本は髄質検査のために使用した後廃棄し、一本は血液型検査のため消費したと説明するに至つたものであり、前記のとおり、一本が血液検査のため消費されたとの点は措信できるとしても、二本が髄質検査のために使用した後廃棄されたとの弁明は直ちには信用しがたいものである。

(2)  捻転屈曲について

当審証人大迫忠雄は、前記のとおり、「甲の毛」は生来的に捻転屈曲のある毛とは思つていない、昭和四四年一月二一日段階で「甲の毛」に捻転屈曲が著しかつたのは、自分が採取してから同日までの保管方法が悪かつたからである旨述べるのであるが、前掲の当裁判所の証人須藤武雄に対する尋問調書(別冊六冊七九一丁)によれば、捻転屈曲は極端な保存条件が加わらない限り変ることはなく(同調書一八八項)、毛をうんと引つ張つてセロテープで貼つておくとか、縮めて揉むようにして強く押しておくという場合には多少の差は出ると思うが、普通は採取したものをそのまま紙で押えたというだけでは変ることはない(同一八九項)、温度では一二〇度以上位のときは変ることはあつても、普通の温度で変ることは絶対にない(同一九〇項)、時間の経過に伴い毛の形状が変わるということは特別な条件の場合を除いてないと考える(同二八四項)というものであつて、証人大迫の捻転屈曲に関する前記供述記載は証人須藤の右供述記載に照せば信用できないことになる。「甲の毛」は警察技師矢野勇男、同大迫忠雄連名作成の昭和四四年五月三〇日付鑑定書(鑑定着手は次の七月七日付鑑定書のそれと同一と考えられる、一一冊三二九三丁裏)及び警察技師大迫忠雄の同年七月七日付鑑定書(鑑定着手同年一月二一日、同冊三二九〇丁裏)に照らすと、採取時及び右各鑑定着手当時には捻転屈曲の著しい毛であつたと認めるのが自然であり相当である。然るに第一次須藤鑑定書(同冊三三〇八丁)によれば、警察庁技官須藤が「甲の毛」として送付を受け、鑑定の用に供した「甲の毛」(資料一号)は同書添付の写真1に見られるように捻転屈曲の著しい毛とはいいがたい。当審証人須藤は前記のように、自分と大迫の捻転屈曲に関する各鑑定には、表現上の違いはあるが、そんなに差はないと思う、と述べるのであるが、大迫鑑定では「甲の毛」と「舩迫清の陰毛」につき双方の類似点を列挙した後、次の項で捻転屈曲において「甲の毛」は著しく、「舩迫清の陰毛」は少ない、と記載しているのに対し、須藤鑑定では、双方の捻転屈曲がよく似ている、と記載しているのであつて、捻転屈曲に関する両鑑定の間には実質上の差異が認められ、両鑑定の差異は表現上の違いといつてすまされるものではなく、却つて「甲の毛」と「甲の毛」が同一の毛でなかつた疑いをさし挟ませるものである。

(3)  以上に加えて鑑定物件等受発簿(別冊一冊)その他関係証拠によれば警察技師が資料二八号が送付されたのに、これを資料二八号の一とし、キヨ子の陰部から採取して持ち帰つた「甲の毛」を含む三本の陰毛を資料二八号の二として割り込ませていることがうかがわれることや、前記舩迫清の陰毛二三本中の五本の所在不明問題等について露呈されているような警察技師等の毛髪等資料についての厳正慎重とはいいがたい取扱保管の実情、第一次須藤鑑定書は証(資料)一号の「甲′の毛」と証(資料)二号の二一本と認められる舩迫清の陰毛の二一本すべてについて一つひとつ対比検討されたことが示されておらないこと及び写真(別冊二冊三四〇丁)からみて右二一本がすべて完全な形態のものばかりで不完全毛はなかつたと断定するには疑問が残ること、須藤鑑定は「甲′の毛」と右舩迫清の陰毛の双方の毛の表面にそれぞれ頻度が非常に稀な亀裂があり、これは個人的特徴であると指摘されるが、警察技師大迫は「甲の毛」の採取から六か月近くもその毛を中心として他の毛と対比検査を行ないながら右亀裂を全く発見していなかつたこと(大迫技師は右舩迫清の陰毛についても亀裂を発見していなかつたので、このことから当然に「甲の毛」に亀裂がなかつたことにはならないけれども、「甲′の毛」と「甲の毛」が必ずしも同一とはいえないことの理由にはなりうる)、「舩迫清の陰毛二三本」は大迫技師のもとで二本が所在不明となり、それが不完全毛であつたかについて疑問が残り、須藤第一次鑑定のなかで二本廃棄したとされることにも疑問が残り、これらの四本が如何なる毛であつたか確めえないうえに、大迫技師は「甲の毛」と「舩迫清の陰毛二三本」を同時に、かつ複数回対比検査を重ねており、その作業中に何らかの機会に過つてとりちがえられるなどし、右所在不明となつた二本中の一本が「甲の毛」とすりかわり、「甲′の毛」として須藤鑑定の資料とされるおそれがなかつたとはいえないことなどを考えあわせると、捻転屈曲の著しい毛である「甲の毛」と捻転屈曲が著しい毛とはいえず、それが少なく舩迫清の陰毛によく似ているとされる「甲′の毛」は同一物であると断定することについては疑問が残るといわざるをえない。

してみると、第一次ないし第三次須藤鑑定の資料とされ(さらには裁判所に押収)た「甲′の毛」が、現にキヨ子の死体の陰部から採取された「甲の毛」と同一のものであると断定することは許されず、両者が同一であることを前提にした鑑定嘱託を受けてなされた右須藤鑑定の証拠価値にも疑問があるものとならざるをえない。

なお、当審証人大阪大学教授四方一郎の第一八回公判廷における供述(別冊一〇冊)を踏まえて考察すると、毛髪に関する鑑定の現在の水準は、X線マイクロアナライザーによる検査など最新の手法をも取り入れられ、毛髪の研究は近年大いに進歩したものの、その分析結果は、資料同志が由来を異にすることを示すことはできても、未だ由来が同一であることを示すまでにはいたつていない、と考えられる。従つて、右分析結果の持つ個人識別能力は、例えば指紋のように、有無を言わさないまでに或いは万人をして不安を抱かしめないほどに個人を識別できるまでには到達しているものではないから、右分析結果の類似性に過分の証拠価値を付与することは危険なことである。特にその資料が本件のように僅か一本の毛髪にすぎず、しかも「甲の毛」と「甲′の毛」との同一性に疑いをさし挟む余地があり、被告人が対象資料用として後日一括提出した毛髪群のうちの一本が甲の毛とされ、その余の毛髪が対象資料に供されたがために両者は同一人に由来する毛であるとの鑑定結果がでたのではないかとの疑いもさし挟みうる案件においては、このような鑑定結果によつて被告人に不利益な方向での心証形成をするわけにはいかない。

3車てつ痕の証拠価値について

(一) 被害者方木戸道から被告人が使用していた車の車てつ痕が発見されたこと

(1) 被告人が本件事件発生日ころ使用していた車の状況

原審第三四回公判調書中証人田中偲の供述部分(九冊二七二〇丁)、司法警察員作成の昭和四四年八月四日付捜査報告書(一二冊三六四二丁)、当審で取調べた司法警察員作成の昭和五九年一月一一日付捜査報告書(別冊二冊三二七丁)、及び検察事務官作成の昭和五九年一二月二〇日付報告書(同冊三三二丁)によれば、被告人は、昭和四四年一月一五日の本件事件発生日ころは、前年末ころ鹿屋市上高隈町一九番地で「忍モータース」を経営していた田中偲から、調子が良ければ買い受けるとの約束の下で引渡を受けていた軽四輪貨物自動車ダイハツハイゼットL三五型(登録番号六宮せ六六四八、車両重量五一五キログラム、全長二・九八五メートル、幅一・二九メートル、高さ一・四三メートル)を使用していたこと、

(2) 昭和四四年一月一八日及び一九日被害者方木戸道等から発見された車てつ痕

司法警察員作成の昭和四四年一月二五日付足跡及び車てつ痕の採取状況報告書(一一冊三二三二丁)、司法巡査作成の昭和四四年一月三〇日付電話聴取書(同冊三二七一丁)、鹿屋警察署長作成の昭和四四年四月二〇日付鑑定鑑別申請書(同冊三二七二丁)、鹿児島県警察本部長作成の昭和四四年四月二五日付「鑑定鑑別結果について」と題する書面(同冊三二七三丁)、同書面添付の鑑定人寺田正義作成の鑑定書(同冊三二七四丁)、司法警察員作成の昭和四四年一月二五日付車てつ痕及び手痕等採取状況報告書(同冊三二八二丁)によれば、

ア 昭和四四年一月一八日、利則、キヨ子夫婦の他殺死体が発見され、同日及び翌一九日の二日間に亘り、殺人現場付近から車てつ痕並びに足跡の採取が行なわれたのであるが、利則方の木戸道及び同人方敷地内で、同月一八日五個の車てつ痕が採取され(その所在位置は、別紙第一図「木戸道並びに宅地内の車てつ痕図」中の(1)、(2)、(3)、(4)、(5)記載のとおりである。)、また、右木戸道内北側溝で、翌一九日には一八日に採取された車てつ痕とは別の二個の車てつ痕が採取されたこと(その所在位置は同図中の(6)、(7)記載のとおりである。)、一八日採取された(1)ないし(5)の車てつ痕のうち(2)、(4)、(5)は縦線紋様のもので同種、同型であつたこと、

イ 右現場から採取された車てつ痕中①別紙第一図中(6)のところから採取の車てつ(タイヤ)痕(鑑定資料番号九一号)は、長さ約二二センチ、幅約八・三センチにわたり採取されたもので、印象状態は立体性に富み、ショルダー部とトレッド部の一部とが印象され、そのショルダー紋様は接地部に近い部分は磨滅しているがその余の部分が印象され、そのトレッド紋様はリブ型紋様で磨耗の程度が極めて高いため印象された紋様の形状も不鮮明でトレッド幅は部分的な印象で測定できないものであるが、鑑識課保管の資料と対照した結果、ブリジストンタイヤ株式会社製のライト・トラック型サイズ4.50〜12のタイヤと同じで、磨耗の程度は、トレッド紋様とショルダー紋様の形状から中等度を大きく超えた程度と認められる②別紙第一図中(3)のところから採取の車てつ(タイヤ)痕(鑑定資料番号一〇〇号)は、長さ約五三・三センチ、幅約一五センチにわたり採取されたもので、印象状態は立体性に乏しいが、トレッド紋様はほぼ良好に印象され、ショルダー部紋様は極めて限られた一部分のみが識別可能の程度に印象され、鑑識課保管のタイヤ資料と対照した結果、オーツタイヤ株式会社製のサイズ4.50〜12のタイヤと同じで磨耗の程度はトレッド紋様の形状から中等度と認められる、とされたこと

ウ 右木戸道等から採取された各車てつ痕と被告人が前記のように使用していた車のタイヤ痕を対比検査した結果、①前記現場の別紙第一図中の(6)のところから採取された車てつ(タイヤ)痕(鑑定資料番号九一号)のトレッド及びショルダー部の紋様及び磨耗の形状が、被告人車の左前輪タイヤ(ブリジストンタイヤ株式会社製ライトトラック型サイズ4.50〜12)の平面タイヤ痕(鑑定資料番号二〇三号、同タイヤのトレッド紋様とショルダー紋様を指紋採取用のインクを用い白紙上に印象し採取したもの)、及び石こうタイヤ痕(鑑定資料番号三二〇号、同タイヤの紋様を同車を土砂の上を走らせて印象し、これを石こうで長さ約六五・五センチ、幅約一七・八センチに亘り採取したもの)の当該部位と符合する(一一冊三二五九の一一の写真中に「9号足跡」とあるのは、足跡および車てつ痕採取状況報告書の他の記載並びに右写真と一一冊三二八〇丁の資料九一号の写真の各石こうの外縁形状から両者の同一性が看取されたことなどからみて、誤りであり「9号車てつ痕」とあるべきものである)、また、②前記木戸道の別紙第一図中の(3)のところから採取された車てつ(タイヤ)痕(鑑定資料番号一〇〇号)は鑑定資料番号一九二号の平面タイヤ痕(前記被告人車の左後輪タイヤ(オーツタイヤ株式会社製、サイズ4.50〜12)のトレツド紋様を指紋採取用のインクを用い白紙上に長さ約四九センチ、幅八・八センチに亘り印象し採取したもの)を印象したタイヤと同種同型のタイヤにより印象されたものと認められるが、同一タイヤにより印象されたとする固有特徴は発見できない、との鑑定結果が得られたこと、

以上の各事実が認められる。

(二) 車てつ痕に関する被告人の説明

(1) 発見された車てつ痕は昭和四四年一月一七日夜利則方へ行つたとき印象されたものであると述べるに至つた経緯

被告人は、原審第一回公判廷(昭和四四年九月一一日)において、同年一月一五日午後九時半頃利則方へ立寄つたことがある、旨陳述し、裁判長の「被告人の車のわだちの跡が被害者方にあつたということだがどうか。」との質問に対し、「私が利則方へ行つたのは事実ですので、わだちは一致する筈です。」と述べていたのであるが、原審第七回公判廷(昭和四五年九月一日)において、昭和四四年一月一五日夜の行動(アリバイ)につき詳細に述べ、同日夜は利則方へ立寄つたことはない、旨供述(二冊五二九丁、五三〇丁)し始め、差戻前控訴審第三回公判廷(昭和五二年一月二八日)において、昭和四四年一月一六日は雨が降つたので自分がもし同月一五日行つたとすればタイヤの跡は消えている筈であり、タイヤの跡が残つているのなら同月一七日行つたときのタイヤの跡である旨(一六冊四五〇一の一丁以下)供述し、そして、同第一七回公判廷(昭和五四年一月一九日)において、車てつ痕が採取された被害者方木戸まで自分が使用していた車を乗り入れたのは昭和四四年一月一七日である(同冊四五〇一の四六丁以下)、原審が昭和四五年一〇月二七日実施した検証の検証調書中の被告人の指示説明で、昭和四四年一月一七日利則方へ行つたとき車を停めた地点が同調書の第四図中の(乙)地点(同検証の結果によれば、別紙第一図、車てつ痕記載(2)の位置より約二・四メートル木戸方向へ寄つた地点)と書かれている(二冊五四八丁、五四九丁参照)のは書記官の書き違いである(一六冊四五〇一の五八丁裏)、さらに原審第八回公判廷(昭和四五年一一月二四日)で、被告人が、昭和四四年一月一七日利則方へ寄つたとき車は県道から木戸道へ四メートル位のところに停めた、と述べたように調書上記載され、原審第二七回公判廷(昭和五〇年七月一一日)で、被告人が昭和四四年一月一七日利則方へ寄つたとき車は高隈中央方向二メートル位の県道上に停めた、と述べたように調書上記載されているが、自分はそのような説明はいずれもしていない、聞き違いだと思う(同冊四五〇一の五九丁)旨供述するに至つた。なお、被告人は捜査段階以来昭和四四年一月一三日午後二時ころ利則方に立寄つた旨供述し、殊に原審第二七回公判廷においては、同日自分が使用していた車で行き利則方の県道の入口から四メートル位入つた所、すなわち二股にわかれる(三差路)手前のところに車を止めて利則方に立寄つた旨供述している。

(2) 捜査段階において被告人が述べていた車を停めた位置

被告人は、捜査段階においては、昭和四四年一月一七日夜利則方前まで立寄つたとき車を停めた位置につき、被告人の司法警察員に対する同年四月二九日付供述調書四項(一六冊)で「私はこの前取り調べのとき一月一七日午後七時四五分ごろ利則君の家に立寄つたとき、車を利則君の家の木戸口のかこいのあるところまでのり入れドアをひらいて片足だけを車の外におろし利則君を呼んだが返事がなかつたのでそのまま帰つた、と話しましたが、いま考えてみますとこれは私の記憶違いでありました」と述べているところがあるほかは、被告人の司法警察員に対する供述調書においていずれも、県道上福岡部落(別紙第一図参照)の方へ向い左側に停めた旨述べ(被告人の司法警察員に対する昭和四四年四月一六日付(一六冊三七丁裏、三八丁)、同月二九日付(同冊八一丁)、同年六月一一日付(同冊一四九丁裏)、同年七月三日付(一三冊三七一九丁表)各供述調書)、また、昭和四四年一月一五日夜利則方へ立寄つたときの停車位置については、県道から木戸道内へ入つて三間位のところに停めた旨述べる(被告人の司法警察員に対する昭和四四年六月一一日付(一六冊一四九丁)、同月一二日付(一三冊三六六七丁裏)、同月二四日付(同冊三六八六丁)、同年七月四日付(同冊三七二二丁、三七二三丁)、同月一〇日付(同冊三七四四丁裏)各供述調書)一方、車を利則方木戸口の反対側、車の進行方向の左端に停めた(同四四年四月二四日付同供述調書、一六冊六九丁裏)、車を利則方木戸口まで乗り入れ、庭と木戸口の境に板垣(扉)がありそこに停めた(同四四年五月二日付同供述調書、同冊八九丁裏)、車は利則方庭の入口の板壁(扉)のあるところまで入れた、これまでにそこまで車を入れたことはなかつたが、そのときは籾を積んでいたので入れた(同四四年五月一〇日付同供述調書、同冊一〇九丁表)、このときは籾を積んでいたので盗まれては困ると思い、車を木戸口の方にバックで乗り入れ、木戸の板壁(扉)のあるところから四、五メートルの所に停めた(同四四年六月四日付同供述調書同冊一二五丁、但し同調書添付の被告人作成図の停車位置は別紙第一図中の至山畑との三差交差点よりさらに県道側である)旨述べ、これらによると、昭和四四年一月一七日夜の利則方前まで立寄つたときの停車位置につき、木戸の扉付近と述べたこと(供述調書は作成されていない)があることはうかがわれるが、各供述調書においてはいずれも県道上と記載され、昭和四四年一月一五日夜利則方へ立寄つたときの停車位置については、同年五月二日付、一〇日付供述調書では前記被告人が使用していた車の車てつ痕が採取された別紙第一図中(6)、(3)の位置付近に停めたかのように記載されているものの、それ以外の供述調書、とくに不利益事実の承認及び自白時の昭和四四年六月一一日から同年七月一〇日までの前記各供述調書においては一貫して県道から木戸道内へ三間位入つたところにとめた旨述べており、それが同月二五日の本件起訴に至るまで変更されたとは認められないものである(被告人の検察官に対する供述調書中の停車位置の記載については、前記第二・二・(三)・(2)の表のなかの通し番号25参照)。

(三) 差戻判決の指摘

差戻判決は、車てつ痕が犯行のあつたとされる昭和四四年一月一五日に印象されたものであるか否かに疑問がある。即ち、右車てつ痕を採取したのは、同月一八日、及び一九日であるところ、同月一六日と一八日の各夜には降雨があり、右降雨量のいかんによつては、同月一五日に印象された車てつ痕がその紋様の対照の可能な状態で後日採取できなくなる可能性も存在すると思われる。右二回の降雨の量及びこれによる車てつ痕の変容の可能性の有無等を明らかにしないまま、寺田鑑定の資料とされた車てつ痕が同月一五日に印象されたと認定することは被告人の弁解(同月一三日及び一七日に利則方に赴いた事実を供述している。)に照し許されないと指摘している。

(四) 当裁判所の事実調

(1) 被告人の当裁判所における昭和四四年一月一七日の停車位置に関する供述

被告人は当審第一五回公判廷において、被告人は利則方の木戸口という場合、利則方入口の牛など外へ出ないようにする板戸(木戸扉)のところから県道までの約三〇メートルばかりの道を指して木戸口と考えていた、昭和四四年一月一七日午後八時ころ利則方へよつてみたときに被告人の車を止めた位置は、県道から木戸道に入つてゆくと利則方へ行く道と畑へ行く道とに分れるが、その三差路の少し県道寄りの所と思う、そこで車を降りて右板戸のところまで歩いて行き声をかけたが電灯が消えていたので引き返した旨供述している(別冊一〇冊一八〇四丁右三差交差点は別紙第一図により測定すれば、県道から約二三メートル、右木戸の板扉から約九メートルの地点である)。

(2) 昭和四四年一月一六日から一八日までに本件犯行現場付近で降つた雨量

司法警察員作成昭和五八年一〇月七日付捜査報告書(当審検七七号、別冊二冊三〇六丁)、鹿児島地方気象台長作成の昭和五九年四月一八日付「気象資料の照会について」と題する書面(同検七八号、別冊二冊三一二丁裏)によれば、本件犯行当時ころ、鹿屋地方の雨量測定は、鹿屋市寿町三五〇七番地二(昭和四六年一〇月一日住居表示が変更され、現在、鹿屋市札元一丁目九番二号、本件犯行現場である鹿屋市下高隈町五二五番地の南方にあり距離約一一・二キロ)に所在した鹿児島県農業試験場鹿屋市場(現在、鹿屋市笠之原水道企業団が所在)内に設置されていた鹿屋農業気象観測所と鹿児島県肝属郡高山町新富四六七番地一(本件犯行現場の南東方にあり距離約一六・一キロで、かつ、右鹿屋農業気象観測所の東、やや南で距離約八・九キロ)に設置されていた肝属川気象観測所の二か所で測定されていたのであるが、右鹿屋農業気象観測所の観測によれば、昭和四四年一月一六日、及び一七日は雨量はなく、同月一八日の午後一〇時から一一時までに〇・五ミリ、午後一一時から一二時までに〇・五ミリの雨量が測定され、また、右肝属川気象観測所の観測によれば、同月一六日の午後一〇時から一一時まで二ミリ、午後一一時から一二時まで一ミリ、同月一七日の午前零時から一時まで一ミリ、午前一時から二時まで一ミリ、午前三時から四時まで一ミリ、午前五時から六時まで一ミリ、同月一八日の午後一〇時から一一時まで二ミリ、午後一一時から一二時まで一ミリ、の各雨量が測定されたこと、本件犯行現場は山地の麓付近にあり、右両観測所はいずれも平野部にあることなどが認められる。

本件犯行現場付近で昭和四四年一月一六日以降同月一八日までにどの程度の雨量があつたかについては、原審で取調べた司法警察員作成の昭和四四年一月二五日付「足跡及び車てつ痕の採取状況報告書」(一一冊三二三二丁)によれば、本件犯行現場付近で同月一六日と一八日の夜は雨が降つた事実が認められること、別件で逮捕された初期のころの被告人の司法警察員に対する昭和四四年四月一六日付供述調書においては、同年一月一七日午前九時ころ自宅から自分の車にハゼの実を積み運転したが、前の晩に雨が降つたのか道路がぬかつていたような気がする、それで車がスリップして動かなかつた、そこで荷物をおろし空車にして妻に後押しさせたがそれでもだめだつた旨述べて、相当の降雨のあつたことをうかがわせる供述記載がなされていること、本件犯行現場も被告人宅も共に鹿屋市下高隈町(別紙第三図参照)で同様に山地の麓付近にあり同程度の降雨があつたとみてよいが、山地の麓付近は局地的降雨等が生じ易いので、平野部に所在し本件犯行現場から相当距離の離れている前記両観測所の観測値をもつて本件犯行現場の降雨量とすることには問題があること、肝属川気象観測所は本件犯行現場と同様右一六日から一七日にかけての夜と一八日の夜に降雨があり、かつ、本件犯行現場の南東方にあたり冬期の北西季節風の進路方向にあるから鹿屋農業気象観測所よりも降雨量に関し本件犯行現場のそれに近い数値を観測するものと考えられるが、約一六・一キロも離れた平野部にあることを考慮すべきであることなどにかんがみると、山地の麓付近である本件犯行現場の右一六日から一七日にかけての夜と一八日の夜には肝属川気象観測所の観測値よりも相当程度上回る量と強さの降雨があつたのではないかと考えられるが数値については明らかになしえない。

ところで検察官は右両観測所の降雨観測値をもとにして鑑定嘱託をなし、その結果が当審で取り調べられたのでこれを次に述べることとする。

(3) 観測値の雨量による、昭和四四年一月一五日夜印象されたとする車てつ痕の変容の可能性

ア 検察官より鑑定嘱託された九州大学農学部助教授田熊勝利作成の昭和六〇年二月一日付鑑定書(別冊三冊四七九丁)、同じく福岡県警察本部刑事部鑑識課員清水洋作成の同日付鑑定書(同冊四四〇丁)によれば、

検察官の鑑定嘱託事項

大人一名が運転していた軽四輪貨物自動車左前のタイヤによつて、本件現場である鹿屋市下高隈町五二五番地利則方前の私道(木戸道)の土壌(以下、「本件現場付近土壌」という。)に車てつ痕(ショルダー痕)が印象されたとして、次の各場合に、印象された日から四日目にも右車てつ痕が、その特徴を残し得る程度に印象を留めているか否か。

① その印象された日の翌日及び二日目にいずれも降雨はあつたが〇・五ミリに達しない降水量の雨が降り、三日目に一ミリの降水量の雨が降つた場合

② その印象された日の翌日六ミリの雨が降り、三日目に三ミリの雨が降つた場合(ただし、一時間の最高の降雨強度は二ミリとする)について、本件現場付近土壌における軽四輪貨物自動車の車てつ痕(ショルダー痕)に鑑定嘱託事項①、②の降水量の雨が降つた各場合、いずれも印象された日から四日目においても車てつ痕(ショルダー痕)を残し、その印象を留めるものと考える、との鑑定がなされている。

イ 右各鑑定結果は、次のような実験方法によりなされたものである。即ち、前記各鑑定書に、当審証人田熊勝利の当審第二二回公判廷における供述(別冊一一冊二三九八丁)、同清水洋の同公判廷における供述(同冊二四四七丁)を総合すれば、

(ア) 右両名は共同して鑑定を引受け、田熊助教授は本件現場付近土壌の性質、右土壌への降雨の方法、降水量、降雨強度に基づく侵食実験を担当し、清水鑑識課員は右土壌への車てつ痕の印象、降雨侵食実験後の車てつ痕の印象の有無を担当してなされたこと

(イ) 印象された車てつ痕(ショルダー痕)が降雨によりその特徴を残しうるかどうかについては、降雨の性質(降水量、降雨強度、雨滴径等、とくに降水量よりも降雨強度(時間あたりの降水量)が重要である。)とともに降雨を受ける側の土の性質、初期の土壌条件が重要であるところ、まず前記鑑定のための実験は、前記木戸道(別紙第一図参照)の木戸付近から西方向(同図面福岡県道方向)へ約八メートル位に亘り堆積した枯葉等を取り去り、元の木戸道を再現し、その木戸道北側端に幅約二五センチ、深さ約六・五センチの溝を造り、その溝内に軽四輪貨物自動車(マツダ四八年式、車両重量四七五キログラム)の運転台に運転手(体重六〇キログラム)が乗り、西方から東方に向い左前輪タイヤにより車てつ痕(タイヤ内側ショルダー部とトレッド部)をA、B、Cの三か所に印象させたこと、

(ウ) 右実験に使用したタイヤは、軽トラック用タイヤで、トレッド部はリブ型縦溝を主体としたデザインであり、トレッドの深さ平均五・六ミリで新品時(八・一ミリ)からするとその磨耗度は約三〇・九パーセントで比較的磨耗の少ないものであり、また、ショルダー部のデザインは、「形の弧状」の連続模様からなり、弧状の頂点と谷の深さは一ないし二・八ミリ、幅約一・四ないし一・五センチ、長さ(縦)約一・一ないし一・二センチの形状をなし、その下方(タイヤ中心側)約八ミリの位置にショルダー部との境界を示すサイドウォール部の段差によりできた「線」がタイヤ円周に沿つてあり、この線の外側に「△」形が円周に沿つて等間隔に六ケ所認められ、印象させ降雨を行つた後の車てつ痕(ショルダー痕)の観察は、右「孤状、」「線」、「△」形の三点につきなされたこと、

(エ) 次に、鑑定嘱託事項①、②の自然降雨条件が満足される模擬降雨を野外において再現することは不可能に近いところから、与えられた降雨条件以上の降雨を土に与えなされたこと、即ち、前記A、B、C三か所の車てつ痕を昭和五九年一二月二四日午後三時ころ印象させ、A車てつ痕については同月二五日午後零時三〇分から同四〇分までの間に五・一ミリ、同午後二時五分から同一五分までの間に二・八ミリ、同午後二時二五分から同三五分までの間に三・九ミリ、B車てつ痕については、同月二五日午前一一時一三分から同二三分までの間に六・四ミリ、C車てつ痕については、同月二五日午前一一時四五分から同五五分までの間に〇・八ミリの雨量による降雨を行つたこと、とくに右A車てつ痕に行われた三回の降雨実験の中で、第一回目の降雨強度は一時間あたり三〇・六ミリ、第二回目は最大雨滴径一・〇六ミリ、雨滴の落下速度は秒速四・二二メートルという降雨条件の下でなされたこと、

(オ) 右A、B、Cの車てつ痕につき、右のような降雨を行つた後、A車てつ痕については同年一二月二六日午前一〇時、B、C、車てつ痕については同月二五日の降雨直後、それぞれいずれも採取されたのであるが、採取直前の観察においてもまた、石こうにより採取した右A、B、Cの車てつ痕においても、同月二四日印象された車てつ痕(ショルダー痕)が認められたこと、

(カ) 本件現場付近土壌の性質(物理性)に関する実験結果によれば、同土壌は有機質火山灰土、通称「黒ボク」と言われ、種々の土の中で最も団粒構造が発達している土で、生土と風乾土とに大差がなく、乾燥湿潤の影響を余り受けない土であること、このことから、本件事件発生時(昭和四四年一月一五日)の車てつ痕印象時の土壌と、本鑑定のため実験が行われた昭和五九年一二月二五日の時点での土壌とにはさほど性質上相違がないといえること、また、本件現場付近土壌は人為的な土の攪乱がなければ、降雨後乾燥により収縮し固結する性質を有すること、

(キ) 前記A、B、Cの車てつ痕は、前記のとおり、A車てつ痕については印象後三日目(実際には四三時間後)、B車てつ痕については二日目(実際には二〇時間二三分後)、C車てつ痕については同じく二日目(実際には二〇時間五五分後)に採取されているのであるが、本件現場付近土壌の前記性質からすれば、鑑定嘱託事項の印象後四日目という点は十分みたしうるものであること、

(ク) 被告人が使用していた車の左前輪タイヤの磨耗の程度は中等度を大きく超えた程度(寺田正義作成昭和四四年四月二五日付鑑定書、一一冊三二七四丁裏)であるのに、本鑑定に使用した車の左前輪タイヤの磨耗度は新品に対し約三〇・九パーセントで比較的磨耗は少ない(清水洋作成の昭和六〇年二月一日付鑑定書、別冊三冊四四二丁表)というものであるが、しかし、印象された車てつ痕は鋭角なものほど壊れやすく、磨耗したタイヤによるほど壊れにくいものであり、本鑑定により観察の対象とした前記「弧状」、「線」、「△」形の部分は顕著な磨耗、損傷痕は認められず、「孤状」の頂点と谷の深さは一ないし一・八ミリ、「△」形は〇・二五ミリ位の突起状態で、丸味も帯びておらず鋭角な突起であつたものであり、本鑑定のため使用した車のタイヤ痕(ショルダー痕)の方が、被告人が使用していた車のタイヤ痕(ショルダー痕)より降雨により壊れやすい状況にあつたこと(第二二回公判廷証人清水洋の証言、八三ないし九一項、別冊一一冊)

以上(ア)ないし(ク)の各事実が鑑定・供述されている。

(五) まとめ

前記田熊・清水各鑑定の結果からすれば、仮りに被告人が使用していた車の左前輪タイヤにより昭和四四年一月一五日夜別紙第一図中の(6)の溝部分にその車てつ痕が印象されたとした場合、その車てつ痕は、翌一六日から一七日にかけての夜に七ミリ、一八日夜に三ミリ(前記(四)(2)の雨量)の降雨があつたとしても、同月一九日の採取時までのその痕跡を残しうると言えよう。

しかしながら右判断の前提について考えるに

先ず降雨の点については、右鑑定の結果は、山地の麓にある本件犯行現場から約一六・一キロ離れた平野部にある肝属川気象観測所の観測値を基にしたものといえるところ、前記(四)(2)で述べたように昭和四四年一月一六日から一七日にかけての夜及び一八日の夜の本件犯行現場における降雨は、肝属川気象観測所におけるその観測値、すなわち右鑑定の場合よりも相当程度上回る量と強さのものであつた疑いがあり、そのことは児玉武義が昭和四四年一月一六日午前九時ころから一〇時ころまでの間に、利則方へ同人が生前に頼んでいた牛の配合飼料二俵(一俵二〇キログラム)と牛のえさである鉱塩とを農協の軽四輪マツダオートに積み、前記木戸道から木戸を通り利則方庭に入り届けたのに、同車のタイヤ痕が発見採取されていないこと(証人児玉武義に対する尋問調書(別冊一一冊二二九六丁)司法警察員作成の捜査報告書(別冊三冊五一五丁)警察技師作成の鑑定書(別冊三冊五二八丁、なお児玉の所有とあるのは誤記と認められる))や利則方付近から単車のタイヤ痕は相当数発見されているが、犯行当夜乗車して帰宅したはずの利則の単車のタイヤ痕も発見されなかつたこと(司法警察員作成の捜査報告書、別冊三冊五一五丁)からも裏付けられるものである。

次に車てつ痕の印象日時を昭和四四年一月一五日夜とする点については、右降雨に関する問題点、児玉及び利則の車のタイヤ痕の不発見に加えて被告人の捜査段階における同夜の停車位置に関する供述で別紙第一図中の(6)の溝部分付近まで進めてとめたことを述べたものは犯行を認めていない段階の同年五月二日付及び一〇日付供述調書のみであり、同年六月一一日付、一二日付、二四日付、七月四日付及び一〇日付各供述調書では、県道から木戸道へ三間位入つたところにとめた旨一貫して述べ、七月二日自白してから後も、右(6)の溝部分まで入つて停車したことと相反する供述をしており、自白調書の自白を措信して停車位置だけは措信できないとする特段の事由も看取されないし、右五月二日付、一〇日付調書の停車位置だけは措信できるとする合理的理由も認めがたいこと、右一月一五日夜の利則方立寄りを認める原審第一回公判調書中被告人の供述部分は、後記のように極めて不合理で措信しがたいものであること、本件において他に被告人が右一月一五日夜利則方に立寄つたことを認めさせる客観的証拠及び被告人以外の者の供述等が存しないこと、などをあわせると、別紙第一図中の(6)の溝部分の車てつ痕が印象されたのは昭和四四年一月一五日夜であると断定することは疑問が残り許されない、といわなければならない。

してみると、検察官が嘱託した前記田熊・清水各鑑定の結果それ自体は評価しうるが、その前提である降雨の量と強さにおいて、別紙第一図中の(6)の溝部分の車てつ痕が印象された日時において、それぞれ前記のような問題点、疑問点がある以上、右車てつ痕及び前記田熊、清水そして寺田各鑑定の証拠価値には限界があり、これをもつて有罪を推認させる有力な証拠とすることはできない。

なお、原審第一回公判調書中被告人の供述部分(一冊)によれば、被告人は昭和四四年一月一五日午後九時半頃利則方に行つたら夫婦共殺されていた、自分が疑われると思い届出しなかつたが、その後検挙され起訴状に書いてあるような嘘をいい申しわけない、同日午後九時頃キヨ子と同衾はしていない、正月三日に同衾したことがある、死んでいることは家の外から利則と呼び二〇分位待つたが返事がないので表から入ると寝ているようで、また呼んだが返事がないので横にゆすつてみたら死んでいることがわかつた、一目見ただけでこわくなりすぐ家を出た、利則方に行つたことは事実ですので車のわだちは一致するはずである、(証拠物のタオルと馬鍬の刃を示されて)タオルは見たことなく、馬鍬の刃で殴つたことは絶対にない旨述べているが、同年二月二〇日付実況見分調書(一〇冊二九三四丁)及び原審第四回公判調書中証人浜ノ上仁之助の供述部分(一冊、二八二丁、とくに三三一丁)等によれば、正月三日の立寄りは午後二時ころでキヨ子一人であつたが、立寄つて間もなくキヨ子の両親がきて正月料理等を馳走になり一時間半位いてキヨ子の両親を自車に乗せて辞去しているので同衾したことは不合理であり、また、被告人と利則は親しく交際していた友人でよく訪ねていた家であるのに、その家の外で利則と呼びながら二〇分も待つのは不自然であるし、家中に表から入ると寝ているようで、また呼んだが返事がないので横にゆすつてみたら死んでいることがわかつたというのは、現場の惨状に照らしてありえない認識状況であり、右被告人の供述部分は他の証拠と矛盾し、かつ極めて不合理なもので信用性が認められない。それゆえ被告人の前記供述部分によつて、被告人が右一月一五日夜利則方木戸道に車を停車したうえ同人方に立寄つたことは到底認めることができない。

4被告人の右手首外傷痕の証拠価値について

(一) 右手首外傷痕についての捜査段階における被告人の供述並びに教授城哲男の鑑定

被告人は、被告人の司法警察員に対する昭和四四年七月二日付供述調書(一三冊三六九三丁)において、初めてキヨ子殺害の事実を自白するに至つたのであるが、その際、被告人とキヨ子の肉体関係の有無につき、被告人と利則間で同人方囲炉裏端付近で押問答となり、利則が、被告人に殴りかかつたりするうち、炊事場から包丁を持ち出し、被告人に切りかかつたため、被告人が手で受けとめたところ、右手首に怪我した旨述べ(同冊三六九五丁)、それ以降、捜査段階においては、一貫して、利則から切りつけられ右手首に怪我したことを認める供述していたこと(被告人の司法警察員に対する昭和四四年七月三日付(同冊三七一八丁)、同月四日付(同冊三七二八丁裏、三七二九丁)、同月一六日付(同冊三七六二丁裏)、同月一九日付(同冊三七七二丁)、同月二五日付(同冊三七七六丁、三七七七丁)、被告人の検察官に対する同年四月二四日付(同冊三七八三丁)各供述調書)、とくに、右昭和四四年七月三日付供述調書では、被告人は、右手首の傷については医者にかかつていない、妻にも話していないが傷は残つている、旨述べたうえ捜査官に示してみせ、捜査官がその傷を検証の結果、右手首の関節をはさんで長さ一・八センチ及び一・二センチの傷痕を認めた旨の記載がなされていること(同冊三七一八丁)、そして、右昭和四四年七月一六日付供述調書中には、被告人は、利則方囲炉裏横座において包丁で切られた右手首を持つていたちり紙を当て手当した旨述べ(同冊三七六二丁裏)、更に、前記昭和四四年七月一六日付及び二五日付各供述調書では、包丁で切りつけられた右手首を持つていたちり紙で止血し車で帰る途中、兇器として使用した馬鍬の子(刃)を捨てようと思い、郡境のガードレールのある付近で車を停めた、そのとき血止めをした手を見たところ、血もとまつていたので、ちり紙を取りその付近に投げ棄てた旨述べていたこと(同冊三七六七丁及び三七七六、三七七七丁)が認められ、また、教授城哲男作成の昭和四四年七月二二日付鑑定書(一三冊三八一四丁)には、鹿児島県警察本部長の鑑定嘱託事項である、被疑者舩迫清の身体(頭部、顔面、上肢、下肢等)についての①損傷の有無、存在すればその部位、形状、程度及び個数、②成傷兇器の種類及び成傷の方法③受傷後の経過日数等に対し鑑定結果として、右前腕伸側手関節において、拇指側寄り三分の一の部位に上下方向に長さ五センチの極めて細い線状の外傷瘢痕を認める、該瘢痕の中央二センチ内外の範囲では瘢痕がなくなつて殆んど認め難い、恐らく鋭利な刃先又は刃尖にて擦過されたように考えられる、即ち極めて浅い切創痕と判断される、受傷後の経過日数は判然とはしないが、被疑者が幼少年時に火傷を受けたという顔面右眉毛の中央上方の大鶏卵大の陳旧且つ軽度の外傷瘢痕、被疑者が昭和三七、八年頃丸鋸により受傷したと申立てる右上腕上方外側殆んど肩部近くの帯状の陳旧且つ著しい外傷瘢痕は勿論、被疑者が昭和四三年九月初めころ交通事故により受傷したと申し立てる顔面左眉毛外端上方の小指頭大の陳旧なる外傷瘢痕よりも新しいものと考えられる、旨記載されている。

(二) 右手首外傷痕についての原審公判段階における被告人の供述

被告人は、原審第七回公判廷(昭和四五年九月一日)において、それまで本件犯行日とみられる昭和四四年一月一五日夜利則方へ立寄つたことがある、と述べていた供述を覆えし、同日利則方へは立寄つていない、と供述し始め、同日のアリバイを詳細に供述するようになり、同第八回公判廷(昭和四五年一一月二四日)において、昭和四四年七月三日捜査官に手首の傷跡を示して、同年一月一五日利則方で同人から包丁で切りつけられた傷跡であると述べたのは嘘である、即ち、右手首関節部分のあたりの手掌の方に一か所長さ約一・五センチの、同じ部分あたりの手の甲の方に長さ約一・五センチの各傷跡があるが、右手掌の傷は昭和二八年の頃のもので、手の甲の傷は昭和四三年八月三〇日ころ利則を家に送り届けて帰る途中、単車がひつくりかえりガードレールにあたり土堤下に転がり落ちたとき竹の切株で切つてできた傷である、旨供述し始め(二冊六四九丁)、捜査段階において、利則から切りつけられ右手首に受けたと述べていた傷は、昭和四三年八月三〇日ころの右単車事故の際土堤に竹の切株がありそれにより受けた傷である、旨述べるに至つたものである(同冊六五〇丁)。

(三) 被告人が交通事故により負傷したという、その傷に関する医師春別府稔の供述、及び教授城哲男の意見

原審裁判所の証人舩迫茂に対する昭和四五年一〇月二七日取調の尋問調書二五項ないし二七項(二冊五九二丁裏)、及び同証人に対する昭和四八年九月二七日取調の尋問調書(四冊一一五七丁)、原審受命裁判官の証人春別府稔に対する昭和四八年二月二一日取調の尋問調書(三冊八七九丁)によれば、被告人が昭和四三年九月初ころ、単車による事故を起し傷を負い、鹿児島県曽於郡大崎町野方に所在する春別府医院に同年九月三日から同月一〇日まで八日間入院したことは認められるが、その際の傷は、右証人春別府稔に対する尋問調書によれば、同証人(医師)は、カルテを見ながら、被告人の受傷部位は、顔面擦過傷、右前腕部擦過傷、左前腕部打撲傷、左胸部擦過傷、頭部及び頸部打撲傷である、それ以外の受傷については、カルテには傷があつた部分は洩らさず記載するので、記載がない以上なかつたものと思う、右手首に切創があつたかどうか現在のところ記憶はないが、カルテに記載がない以上右手首の切創はなかつたと思う、カルテに記載する場合、擦過傷と切創とははつきり区別して書き両者を間違えることはない、と答え、また、春別府稔作成の国民健康保険診療録(一三冊三八一八丁)には、被告人が昭和四三年九月三日入院した際の傷病名につき、前記顔面擦過傷等と同じ傷病名の記載がなされている。また、原審第一五回公判調書中証人(教授)城哲男の供述部分(三冊九六一丁)によれば、前記同人作成の昭和四四年七月二二日付鑑定書の「鋭利な刃先又は刃尖にて擦過されたように考えられる。即ち、極めて浅い切創痕と判断される。」とは普通の擦過傷とは異なる、擦過傷というのは、一般的に言えば、鋭利な刃先とか刃尖でなくて、鈍体で皮膚の表面を擦過した場合を言う旨述べられている(同冊九六三丁)。

(四) 差戻判決の指摘

差戻判決は、

(1) 自白によると、被告人は、利則から包丁で切りつけられてできた右手の傷をちり紙で止血し、右ちり紙は帰途はがして路上に捨てたというのである。しかし、もしも被告人の右手首に残る外傷瘢痕が、差戻前控訴審判決の認定するように、利則から包丁で切りつけられた際にできた傷の瘢痕であるとすれば、右傷からは当然相当量の出血があつたと考えられるのであつて、これをちり紙で止血することができるかどうかはすこぶる疑問であると考えられるばかりではなく、その後被告人が被害者両名を殺害して車で帰途につくまで、そのちり紙が手首に付着していたという点も常識に反するものと思われる。

(2) 被告人は、前記(二)のように弁解しており、そして、被告人が、ほぼその供述する時期に単車で交通事故を惹起して入院治療を受けたことは、客観的に明らかにされている。もつとも、記録によると、その際の被告人の診療録(写)には、被告人の病名として、「頭、頸、左腕部打撲症及び顔面、左胸部、右前腕擦過傷」とのみ記載されていて、「右手首関節部分の切創」という記載がなく、また診療に当つた春別府医師は、「カルテには病名を殆んど記載しているから、その記載のない右手首切創はなかつたものと思う。」「擦過傷と切創とは、カルテの記載上はつきり区別している。」旨供述している事実がうかがわれるが、被告人が右交通事故の際に負つた傷害は、右のとおり身体の相当多数の部位に及んでおり、しかも、その中には、概念的に「右手首」を包含する「右前腕」の擦過傷も含まれていたのである。従つて、被告人の診療にあたつた春別府医師が、傷害の範囲の広い「右前腕擦過傷」のみをカルテに記載し、比較的軽微で部位及び症状がこれと近似している「右手首切創」の記載を落とすということも、ありえないわけではないと思われる。

(3) 被告人の右手首の切創は、被告人が前記交通事故により負つたと述べている他の瘢痕よりも新しいものとする前記城鑑定及び城証人の第一審公判廷における供述につき、他の一方では、城証人は、傷害瘢痕の陳旧度の判定は、受傷後数か月以上を経過した後はかなり困難であり、受傷後の経過日数は「判然としない。」「確定的には断言できない。」と述べているのであり、これらの点からすると、「右手首の瘢痕が顔面の瘢痕より新しい。」という城鑑定の結論も、それほど確たる根拠があるわけではないように思われる。ちなみに城証人も被告人の右手首の瘢痕が、被告人が弁解するとおり、竹の切株などによつても生じうるものであることは、これを認めている。

(4) 以上の検討の結果によれば、被告人の右手首に残る瘢痕及びこれに関する城鑑定は、たしかに被告人に不利益な情況証拠の一つではあるが、捜査段階における被告人の自白の信用性を強く裏付けるに足りる証拠価値を有するとまではいえないものと考えるべきである。

以上(1)ないし(4)のとおり指摘している。

(五)  当裁判所の事実調及びまとめ

当審第七回公判調書中証人大霜兼之の供述部分によれば、差戻判決に指摘された(1)の点につき、「都会人とは違い田舎で肉体労働の仕事等している人は、少々の傷でも、例えばよもぎとかその他そばにありあわせのもので止血するのが通常である。利則から切りつけられ傷を負い、これを被告人が持ち合わせのちり紙で止血したとしても、別段不思議とは思われない(同供述部分二九項、別冊六冊六五五丁裏)と述べられている以外に差戻判決の指摘点を解明するに足る立証はなく、結局、当審における事実調の結果によつても、差戻判決に示された前記疑問点は解明できなかつたものであり、とすれば被告人の右手首の外傷瘢痕は交通事故の際に竹の切株で切つた傷あとでありえないわけではなく右瘢痕をもつて被告人の自白の信用性を裏付けるに足りる証拠価値を有するものということはできない。

5指紋及び血痕について

(一) 本件犯行現場の状況

司法警察員作成の昭和四四年二月二〇日付実況見分調書(一〇冊二九三四丁)によれば、利則及びキヨ子が殺害された鹿屋市下高隈町五二五番地同夫婦方居宅の間取は別紙第二図「折尾利則方見取図」のとおりであるが、

(1) 同見取図の四畳半の間には二畳弱のじゆうたんが敷かれ、その上に電気炬燵が置かれているものの、そのコードは外され、中間スイッチも「断」でその使用は認められず、炬燵上板には灰皿二個、未発送の封書、便せん、箸立等があり、灰皿内にはタバコの吸がら二本、マッチ軸五本、もぐさ、線香が置かれていたこと、

(2) 右四畳半とその北側三畳の間には敷居が設けられているが障子はなく、三畳間には座敷箒、利則が脱いだとみられる衣類(ジャンパー、軍手、帽子、靴下)及びタオルのほか、土間にある炊事場側に囲炉裏が設けられ、その周囲には、茶道具、どんぶり、タバコケース、鍋等が置かれ、囲炉裏付近の畳上には灰が飛び散つていたこと、

(3) 炊事場は土間にあり、土間のほぼ南西側にかまどが据付けられ、そのかまどとその南側にある出入口板戸との間に薪が置かれていたこと、

(4) 犯行現場である表六畳間は、前記図面に記載の如く、前記四畳半の間の東側に障子四枚に仕切られて存し、北側にはタンス、夜具棚、東側には床の間、障子二枚、南側には障子三枚、その障子の前には裁縫台、ミシンが置かれていたこと。

(5) 右六畳間内の西側寄りの位置に、南北に敷かれた敷布団があり、キヨ子は頭部を北側に足部を南側にしてうつぶせに躯幹を伸ばし、その上半身は敷布団の上に、下半身は畳の上にあるような状態で倒れ、一番上に着て腰紐でくくられていたネル単衣は腰までまくり上げられ、臀部及び下肢は露出し、その上に掛布団がかぶせてあり、同女を仰向けにすると右ネル単衣は同様にへその部分までまくり上げられ、下腹部及び下肢は露出し、ネル単衣の下部に赤色Vネックセータ、ネルメリヤスシャツ、ネル肌じゆばん、赤褐色ゴム入布製バンド(健康バンド)を着用していたこと、左下肢のあつた部分に、女物ネル袴下、木綿パンツがそれぞれ裏返しの状態で丸められ置いてあつたこと、

(6) 利則は、右六畳間のキヨ子の東側に、頭部を南西に足部を北東に躯幹をのばしうつぶせの状態で畳の上にじかに倒れ、敷布団が頭部にかぶせられ、その上に掛布団二枚がかぶせてあつたこと、利則は、上半身外側に濃紺の背広チョッキ、その下に白木綿カッターシャツ、その下に青色毛糸の腹巻、その下にメリヤス肌着、白木綿丸首シャツ、下半身にはメリヤスのズボン下二枚を重ねて着用していたこと、倒れていた利則の右肩部分に女物カーデガン、木綿じゆばん、バンド付作業ズボン、黒ジャンパー、ネル女物もんぺが置かれていたこと、

以上のとおり認められる。

(二) 被害者利則及びキヨ子の傷の状況

前記実況見分調書に教授城哲男作成の昭和四四年二月五日付、同月六日付各解剖鑑定書及び同人の検察官に対する同年七月二二日付供述調書(一〇冊二八九七丁、二八八五丁、二八九六丁)によれば、

(1) 利則は身長一四七センチ、血液型はB型、頭髪の長さ四センチ内外であるところ、その後頭部には多少とも角稜を有するような鈍器ないし鈍体で殴られた形跡を有する少なくとも八個以上の複雑な形態の挫裂創が存し、著しい程度の頭蓋骨々折並びに頭蓋底骨々折、更に著しい脳挫傷が存し、頸部には、項部正中においてタオル一本が右ひねりに絞めてあり、タオルを除くと項部における索痕の巾は約一センチ、前頸部の索痕は著しくなかつたこと、その死因は主として後頭部打撲に由来して該部頭皮に著しい挫裂創を生ぜしめ、更に頭蓋骨々折並びに頭蓋底骨々折を生ぜしめ、遂には著しい程度の脳挫傷を惹起せしめたために瀕死の状態にあるところを、別にタオルによつて絞頸窒息死せしめたものとみられること、

(2) キヨ子は身長一四二センチ血液型はA型、頭髪の長さ一三センチ内外であるところ、左側頭部耳介の後方に創傷二個があり、第一創はほぼ水平で長さ二・三センチ、深さ三センチ内外、創底は骨膜に達し、右第一創より一・五センチ前方に上前方に走る創傷長さ一・五センチの第二創があり、この第二創と同時に生じたものと思われる左耳介上四分の一に大きさ一・二×〇・九センチの弁状創が存し、後頭部正中より右側に水平に長さ三・五センチの創傷、右頭頂部と後部、側頭部の境界に半月形の創傷があり、弧の長さ二・五センチ、弦の長さ二センチであつたこと、顔面には左眉毛外端より斜後上方に走る創傷があり、半月形を呈し長さ三センチ、上方から打ち込まれたような弁状創で、深さ二センチ内外の挫裂創があつたこと、頸項部には、項部において右ひねりに絞められたタオル一本が頸部に巻いてあり、タオルを除き検査すると、項部において索痕が著しく、その巾一・八センチ、前頸部にあつては下縁に沿つて線状の表皮剥離が著しいこと、頭皮内面に於て外表の挫裂創に一致して頭皮内出血があり、左側頭葉に一致して限局性軟膜下出血が著しいものの頭蓋骨々折、頭蓋底骨々折はなく、その死因は主として絞頸に基づく窒息死であつたこと、

以上の各事実が認められる。

第二図昭和57年(う)第114号

折尾利則方見取図(10冊2976丁参照)

(三) 血痕の付着状況とその血液型

司法警察員作成の昭和四四年四月三〇日付写真撮影の結果報告書(一〇冊二九七九丁)、教授城哲男作成の死体解剖の鑑定書二通(一〇冊二八八五丁、二八九七丁)、警察技師矢野勇男作成の昭和四四年三月一二日付、同年八月九日付鑑定書(一二冊三五七二丁裏、一三冊三八〇一丁裏)、警察技師矢野勇男、同大迫忠雄連名作成の昭和四四年五月三〇日付各鑑定書(一一冊三二九三丁裏、一三冊三八〇四丁裏)鑑定人牧角三郎作成の昭和五〇年一月三〇日付鑑定書(六冊一八八〇丁)、原審裁判所の証人牧角三郎に対する昭和五〇年九月八日取調の尋問調書(六冊一九七七丁)を総合すれば、

(1) 利則及びキヨ子が殺害されていた前記六畳間の西側障子、北側のタンス、夜具棚、東側床の間の板戸、東側障子、南側障子、その前のミシン、裁縫台上、同間の天井には無数の飛沫血痕が付着し、その殆んどがB型であつたものの、捜査段階においては、東側障子(但し、床の間に接している方の障子)の上の鴨居部分、床の間板壁の南、北側の各端下隅の一部に、また、天井の東北部分の一部にA型の飛沫血痕が付着すると鑑定されていたこと、

(2) 利則の頭部、頸に巻きつけられたタオル、着用していた一番上のチョッキには多量の血痕が付着し、同じくカッターシャツには殆んど全面に飛沫状、落下状の血痕が、その下に着ていた白メリヤスシャツ、丸首シャツには浸透状の血痕が、毛糸腹巻にはその一端に大多数の飛沫状血痕が、また、二枚重ねて着ていた袴下ズボンの外側のズボンには両前から両足にかけて多数の飛沫状、落下状の血痕が、内側のズボンには左前上部、右膝部、右足裾等に少量の浸透状の血痕がそれぞれ付着し、以上いずれもその血液型はB型であつたこと、倒れていた利則の右肩付近にあつたバンド付作業ズボンの前上部に当たるところに針先大ないし大豆大多数のB型飛沫状血痕が、同じく女物カーデガンの襟垢からはA型が採取されたものの、その全面ところどころに擦過状のB型血痕が多量付着し、同じく黒ジャンパーの両前、両袖、背部並びに内側に多量の飛沫状、浸透状のB型血痕が、同じくネル女物もんぺには左膝部より下方にかけて広範囲に浸透状、右前上部に擦過状、右大腿外側よりその下方にかけ浸透状、擦過状のB型血痕がそれぞれ付着していたこと、

(3) キヨ子の頭部、顔面、頸に巻かれているタオルには多量のA型血液が付着し、同女が一番上に着用していたネル寝巻の襟から肩、左右の袖、右前身ごろの下半にはA型と認められる多量の血痕が、左右の袖口近くや右前身ごろ、左前身ごろの裾近く並びに背面の一部にごく少量のB型血液が散在的に付着し、同女が右ネル寝巻の下に着ていた赤色Vネックセーターの左前襟から左前、両肩から両袖にかけ多量の落下状のA型血痕が、その下に着ていたネルメリヤスシャツ、ネル肌じゆばんにはそれぞれ多量の浸透状のA型血痕が付着し、同女の左下肢近くにあつた女物ネル袴下には左前上部から両下腿前部にかけて飛沫状、擦過状の血痕多数が付着し、飛沫状血痕はB型、擦過状血痕はA型であつたこと、

(4) 利則にかぶせてあつた敷布団の表地、裏地に擦過状、浸透状の血痕が付着し、表地の血痕は何れもB型、裏地の血痕は一か所はB型、他の一か所はA型であり、利則にかけてあつた掛布団二枚のうち一番上に掛けてあつた布団の表地の下半分にあたるところに、飛沫状、浸透状の血痕三か所、裏地の襟当のところに飛沫状血痕、その外裏地の全面ところどころに飛沫状、浸透状の血痕があり、表地の飛沫状血痕二か所はB型、浸透状の血痕はA型、裏地の襟当の飛沫血痕はA型、その外飛沫血痕二か所はB型、浸透状の血痕はA型であり、利則に上から二番目にかけてあつた布団の表裏には飛沫状、擦過状、浸透状の血痕が多数付着し、その血液型はB型であつたこと、

(5) キヨ子が倒れていた敷布団の表地の殆んど全面に飛沫状、擦過状、浸透状の血痕多数が、裏地に擦過状、飛沫状血痕少量が付着し、表側は右上部の飛沫血痕のみがB型、他の血痕は何れもA型、裏側は何れもA型であつたこと、同女にかけてあつた掛布団一枚の表地の襟当の右側にA型の擦過状、右下にA型の浸透状、左側にB型の浸透状の血痕が、同布団の裏地の上部襟当にA型の多数の飛沫状血痕が、その右下にB型の擦過状血痕が付着し、その他はA型の浸透状血痕であつたこと、

(6) 前記六畳間裁縫台の下部付近より床の間方向(利則が倒れている方向)に向け凝固した糊状の多量のB型血液が畳の上に付着し、同六畳間の夜具棚上面の右側扉は開放され、その表側前面にB型の飛沫血痕が付着するが、その裏面には血痕は付着していない、また、同六畳間と西側四畳半の境の敷居上に、障子北側一枚目の南端より一三センチの部分にわたりA型血痕が付着していたこと、

(7) 前記三畳の間に置かれていた衣類(利則が脱いだとみられるもの)であるジャンパー、軍手、帽子、靴下並びにタオルには血痕の付着はみられなかつたものの、その襟、袖口、汗止め等汚れているところからジャンパー、軍手、帽子、靴下からはB型、タオルからはA型が発見されたこと、同三畳間の北側障子前畳に足跡様の血痕が認められ、同障子の東側に所在する障子の敷居の上方〇・八五メートルの位置の桟にA型血痕が付着していたこと、

(8) 同三畳間北側障子の北側には幅〇・九六メートルの畳の敷かれた物置(縁側)があり、そのほぼ中央部分の南側は上・下二段にしきられ、上段右側に鏡台があり、その中央部抽出の取手にA型血痕が付着していたこと、

(9) 炊事場土間の南側にはかまどがあり、そのかまどとその南側にある出入口板戸との間は幅〇・四六メートルの間隔があり薪が置かれているが、その薪の一本(皮付の丸太、全長七二センチ、直径二・六ないし三・二センチ)の中央部付近に大豆大ないし鶏卵大の血痕三個、直径の太い方の所に米粒大ないし小指大三個の擦過状血痕が付着しいずれもA型であり、また、右出入口板戸は一枚で西側に戸袋が設けられ、東側柱に掛金をかけて施錠される仕組となつているが、その東側柱には地上から一・〇四メートルの位置にA型血痕が付着していたこと、

以上の各事実が認められる。

(四) 加害者に対する血液付着の可能性に関する牧角鑑定

鑑定人牧角三郎作成の昭和四八年二月二二日付鑑定書(三冊八九一丁)によれば、血液が飛散するのは、細小な動脈の断端から噴出する場合、血の付いた物体を振りまわす場合、開放性の創口とくに血のたまつている創口に再び打撃が加えられる場合等が考えられるところ、

(1) 利則の頭頂部の創口は、頭髪に覆われることもなく、創面、創底が露出し、頭蓋骨には大きな骨折がある。この創の存在部位は頭皮下に浅側頭動脈の分枝が走り、また頭蓋骨のすぐ下には脳硬膜の中硬膜動脈の分枝が分布している。右頭頂の創に見られる骨折の範囲や大きさからみれば、頭皮下の動脈分枝の損傷離断はいうまでもなく、中硬膜動脈分枝の損傷も避けられない。このように、動脈分枝の損傷があり、しかも創口が外部へひろく露出している創においては、多量の出血を生じることは言うまでもなく、動脈の博動に伴い血液が相当の勢いをもつて外方へと飛ぶ。また、既に出血の始まつた創口部分に繰り返し打撃を加えるとその血液の飛びはねも容易に生じるし、打撃に用いられた棒状鈍器に付着した血液も頻回の打撃の際飛散しうる。利則の頭部にはそのほか左耳の後上部にも複雑な創口があり、その一部は露出している。この創の存在部位は、頭皮下において後頭動脈が走り、脳硬膜には中硬膜動脈の分枝が分布する領域である。頭皮離断の程度や頭蓋骨々折の状態は不明確であるが、後頭動脈の損傷離断があればそれだけでも創口から血液飛散はありうる。

(2) キヨ子の頭部の創五個のうち、左耳介の弁状創は頭髪に覆われていないが、存在部位はごく微細な血管しか分布してなく、血液が飛散し得る場所でない。他の四個の創は頭髪に覆われ、長さ三・五センチ、二・三センチ、二センチ、一・五センチというように小さな創口であり、また、創底が骨膜に達しているというのは左耳後方の長さ二・三センチの創だけで頭蓋骨々折もなく、これら四個の創は頭皮下に浅側頭動脈や後頭動脈の分枝が分布する領域であるものの、創口の小さいことや創底の浅いことなどからみれば、たとえこれらの動脈分枝に損傷を生じたとしても、創口から血液が噴出飛散することは考え難い。仮りに、血液が多少噴出し得たとしても、創口を覆う頭髪に遮られて外方に飛散することは考えられない。キヨ子の頭部の創は、それぞれ独立した創であり、同じ創口部に再び打撃が加えられたと認めるに足りる所見はない。利則の創と異なり再度の打撃による血液の飛散も考えられない。また、同女の左眉外端部の創口は露出した部位にあり、この部位は浅側頭動脈の分枝の分布する領域ではあるが、ごく細小な血管しかなく、その動脈分枝に損傷があつたとしても、創口から血液が噴出、飛散することは考え難い。

(3) 以上のことから分るように、利則の頭部からB型血液が飛散することはあつても、キヨ子の頭部あるいは顔面の創口からA型血液が飛散することは考えられないものである、捜査段階において、東側障子の鴨居、床の間板壁の南、北下隅の一部から、あるいは東北部分の天井の一部からA型血痕が採取されたというのは納得しがたい。実際に、東側障子の鴨居、東北部分の天井を除くその余のA型血痕が採取されたとする部分から血痕を採取し検査したがB型であつた。

(4) 結局、利則の頭部に頻回の打撃を加えた加害者に利則の返り血の付着することは不可避と認められるが、キヨ子に打撃を加えた加害者に同女の返り血が付着することはまず起こらないであろう。

以上(1)ないし(4)のとおり鑑定されている。

(五) 被告人の捜査段階における自白中、指紋・血痕の付着可能性をうかがわしめる部分

被告人の司法警察員に対する昭和四四年七月二日付(二通)、三日付(二通)、四日付、一〇日付、一六日付及び一九日付各供述調書、被告人の検察官に対する同年七月二四日付供述調書(以上一三冊)を総合すると、被告人は本件において指紋、血痕の付着可能性をうかがわしめる状況に関し次の如く述べている。すなわち

被告人は、昭和四四年一月一五日午後八時三〇分ころ、脇かづ子から買つた籾一俵を車の荷台に積んでその車で利則方に立寄り、炊事場横の出入口から入つたところ、キヨ子が一人囲炉裏の膳棚側に座つていたので、被告人はキヨ子の向い側囲炉裏の大黒柱側に上り座つて同女が出したお茶を湯呑茶わんで梅干をお茶請として飲んだこと、二、三〇分位話した後同女から誘われ六畳間床の中で肉体関係を持とうとしたとき利則が帰つてきたことから利則と争となり、利則は炊事場から包丁を持ち出し、囲炉裏の大黒柱の所に居た被告人に切りかかつてきたので、被告人は殺されると思い囲炉裏にあつた薪を持つて応じたが右手首に傷を受け、持つていた薪を土間に投げ、六畳間に逃げたこと、利則と同間で対峙しているときキヨ子が「やめてくれ」と言つてきて利則の後頭部を馬鍬の刃で叩いた、そこで自分も利則の顔を殴り、ふらふらした利則から包丁をもぎ取つたこと、その包丁を持つて四畳半の方に出て、包丁を囲炉裏脇の板張りのところに投げてから、囲炉裏の横座のところにきたとき、右手首のところを斬られていたので持つていたちり紙で手当したこと、その後、被告人は、六畳間で、キヨ子から叩かれてうつぶせに倒れ動かなくなつている利則が生き返つて同人からキヨ子との共犯呼ばわりされることをおそれ、同人の足を持つて真中の方に引きずり出したうえ、頭の方にまわり同人がマフラー代りに使用していたタオルをとりあげて前からまわし後ろからねじるようにして絞めたこと、それから三畳間に戻り、キヨ子に囲炉裏脇の包丁を片付けるよう言つて、これを炊事場へ片付けさせたが、そのころ犯罪の発覚を恐れてキヨ子を殺そうと決心し、囲炉裏の横座にタオルが転がつていたので、それを拾い上げたのち、キヨ子を六畳間に連れて行き、さきにキヨ子から取りあげて持つていた馬鍬の刃で不意打にキヨ子を数発殴つたこと、どこを殴つたのかは夢中だつたので分らないこと、キヨ子は敷いてあつた布団の上に利則とは反対方向にうつ伏せに倒れたが身動きしていたので、とどめをさすべく持つていたタオルをキヨ子の首にまわし、後からねじるようにしてキヨ子が動かなくなるまで絞めて殺したこと、それから、囲炉裏の間に戻つたが、幸い返り血はあびていない様子であり、手にも血はついていなかつたので、馬鍬の刃を持ち、炊事場横の出入口(前記かまど南側の出入口)から家を出て馬鍬の刃は途中で捨てるつもりで運転席横から車の荷台に置いたこと、

以上のように述べている。

(六) 指紋、血痕付着物と思料されるものに対する捜査状況

(1) 血痕付着物につき

司法警察員作成の昭和四四年七月一五日付捜査報告書(一二冊三五九八丁)によれば、同年一月下旬ころから被告人が容疑者として浮び上がり、被告人を捜査の対象にして同年二月六日ころから同年七月一五日まで前後一一回に亘り、利則方及び被告人宅付近一帯並びに両宅間沿道の畑、山林等を捜索したが、兇器と思料される物及び血痕付着の衣類等発見できなかつたこと、鹿屋警察署長作成の昭和四四年四月一七日付鑑定鑑別申請書(一二冊、三六六三丁)、鑑定人矢野勇男作成の昭和四四年五月一日付鑑定書(同冊三六六四丁裏)、原審裁判所の証人下園菊雄に対する同年一〇月二一日取調の尋問調書(一冊一八二丁)によれば、被告人がその使用していた車の荷台に積んでいたと思料される藁製四斗叺の一部分から粟粒大、小豆大各一個の人血痕を採取したものの微量のため血液型は検査不可能だつたこと、鑑定人矢野勇男作成の昭和四四年五月一日付鑑定書(一三冊、三七九五丁裏)によれば、被告人が使用していた車のフロントウインドガラス内側物入れ上から血痕らしきもの三個(鑑定申請資料番号、三二二号、三二三号、三二四号)を採取したが、右資料番号三二三号、三二四号からは血痕の付着は認められず、三二二号からは血痕の付着は認められたものの、微量のため人血は検出されず、また、被告人が使用していた車の荷台から血痕が採取され(同資料番号三二五号)人血痕であることは判明したが、微量のため血液型検査は不可能であつたこと、そして同鑑定人作成の昭和四四年八月一四日付鑑定書(一三冊三七九三丁裏)によれば、被告人が本件犯行時着ていたと供述していた(被告人の司法警察員に対する昭和四四年七月一〇日付供述調書、一三冊三七四五丁裏)作業ズボン、シャツにつき血痕の検査が行われたが、作業ズボンからは血痕の付着は認められず、シャツの右袖上部からB型血液の付着が認められたことが認められる。

(2) 指紋につき

原審第二回公判調書中証人大重五男の供述部分(一冊五九丁裏)によれば、本件犯行現場から指紋検出、採取を行ない四五個を検出、採取したが、うち二四個(二五個は言い誤りと認められる)が関係人と被害者と符合したものの、残り二一個は対照不能であつたことが認められる。

(七) 差戻判決の指摘

(1) 指紋について

被告人の自白からすれば、被告人の本件犯行は全く偶発的な犯行であるとされているのであつて、被告人が自己の指紋の遺留を防止するための特別の措置をあらかじめ講じたというが如き事態は想定しがたく、また、被告人は当夜利則方に一時間以上も滞留し指紋のつき易いと思われる同人方の茶わんや包丁にも触れているというのである。従つて、もしも右自白が真実であるとするならば、犯行現場に被告人の指紋が一つも遺留されないというようなことは常識上理解しがたいことと思われる。のみならず、利則方北側物置の鏡台の中央部抽出の取手には血痕の付着があり、犯人が金品を物色した形跡があつて、捜査官も「犯人が鏡台を見ているという感じを受けた。」「鏡台からも指紋をとつた。」というのであるから、右鏡台からどのような指紋が検出されたのか(すなわち、対照可能な指紋が検出されなかつたというに止まるのか、指紋は検出されたが被告人のそれと一致しなかつたというのか)は、本件の真相を解明するうえで重大な意味を持つことが明らかである。しかるに、差戻前控訴審は、「現場から採取された合計四五個の指紋のうち、二五個(捜査官の言い誤りであり二四個が正しい)は被害者らのそれと符合し、残りは対象不能であつた。」という捜査官の供述以外に、右供述の真否を確認する客観的資料も提出されておらず、また、被告人の指紋が現場に遺留されなかつた理由につき、いまだ首肯すべき事情も明らかにされていないのに、これらの点に関する審理を尽すことなく自白の信用性を肯定している。

(2) 血痕について

被告人の自白によれば、被告人はキヨ子が利則を馬鍬の刃で殴打して床上に昏倒させた後、タオルでその頸部を絞めて同人を殺害し、ついで右犯行の発覚を防止する目的で、同じく馬鍬の刃によりキヨ子を殴打して昏倒させ、前同様タオルで頸部を絞めて同女を殺害したとされているのであつて、右自白が真実であるとすれば、このような一連の行動を通じ、その身辺着衣等に多量の流血の認められる被害者の血液が被告人の身体着衣に全く付着しないというのは常識上あり得ないと思われる。差戻前控訴審判決は、被告人がその自白するような方法で被害者両名を殺害した際に被告人の身体に血液が付着しなかつたとしても、不自然でなく、被告人の身辺から血痕の付着した着衣等が発見されなかつたことは自白の真実性を減殺するものではないとして、牧角三郎作成の昭和四八年二月二二日付鑑定書などを援用している。しかしながら、右牧角鑑定は、被告人が馬鍬の刃でキヨ子を殴打した際に返り血を受ける蓋然性がきわめて少ないとしているに止まり、被告人が被害者両名の身体に接近して頸部をタオルで絞めるというような行為をした場合に、両名の頭部、顔面から流出する血液が被告人の着衣に付着しない蓋然性があつたかどうかについては、何ら触れるところがなく、この点の疑問は記録上全く解消されていない。なお、前記牧角鑑定にしても、本件犯行現場に飛散する多量の血液の中に、キヨ子の血液型と一致するA型のものが相当量存在したという捜査の結果と異なる前提に立つてはじめて導くことのできたものであることが右鑑定書の記載自体に照らし明らかなのであるから、右鑑定書の証拠価値については、この観点からもなお検討の余地があるというべきである。

以上のとおり指摘している。

(八) 当裁判所の事実調

(1) 指紋につき

ア 鏡台抽出は物色されたか、また、その抽出に指紋は付着していたか、

原審で取調べた司法警察員作成の昭和四四年二月二〇日付実況見分調書によれば、利則方北側物置(縁側)の鏡台の中央部抽出の取手には血痕の付着があり、犯人が金品を物色した形跡がある旨記載され(一〇冊二九六〇丁裏、二九六一丁)、原審の証人下園菊雄に対する昭和五〇年六月九日取調の尋問調書によれば、同証人は、犯人が鏡台を見ているという感じを受けた(七冊二〇五三丁裏)と述べ、そして、原審の証人曽山篤徳に対する同日取調の尋問調書では、同証人は、鏡台からも指紋をとつた(同冊二〇六二丁裏)と述べているのであるが、当裁判所の証人曽山篤徳に対する昭和五七年一〇月八日取調の尋問調書(別冊四冊一三六丁)によれば、原審で「利則方納戸物置の鏡台から指紋をとつた」と言つたのは、指紋の採取作業を行なつたという意味で指紋が採取されたということではない(同冊一四六丁ないし一四七丁裏)と述べ、これに、当審で取調べた鹿屋警察署長作成の昭和四四年一月二〇日付現場指紋等送付書(別冊一冊一丁、当審検六号)、鹿児島県警察本部刑事部鑑識課長作成の昭和四四年八月四日付現場指紋等対照回答書(同冊三丁、当審検七号)を合わせ考察すれば、前記鏡台からは指紋は検出されていないことが認められる。また、原審で取調べた前記実況見分調書によれば、同じく利則方内で物置の鏡台よりも人目につき易い三畳間膳棚にあつたキヨ子のハンドバック、六畳間タンスの中が物色された形跡がないほか、当裁判所の証人下園菊雄に対する昭和五七年一〇月八日及び同月九日取調の各尋問調書によれば、犯人がすぐ気がつくような利則方囲炉裏のそばの柱にかかつている女物腕時計が盗まれていないこと(別冊四冊二一九丁裏、二二〇丁)、物置(縁側納戸)の鏡台が物色された形跡があると実況見分調書に記載したのは、鏡台の抽出が引き出してあつたものでなく、ただ鏡台の抽出の取手に血痕が付着していたから、そのように判断したものであること(同冊二一三丁裏ないし二一五丁)、そして当裁判所受命裁判官の昭和六〇年三月八日実施の検証調書(別冊一一冊二三一五丁)によれば、利則方北側物置の北西部の根太床板が腐朽してなくなり外側雨戸二枚も外れ朽ちて雨天とはいえ昼間の外光が入る午前一〇時三〇分から同一一時三〇分の間に、利則方四畳半の蛍光灯と炊事場の電球を点燈して検証すると、鏡台の抽出前に接近したとき、鏡は物を写せるとしても、鏡台の抽出の上部及び抽出内部の状態は暗く全く確認できない状況であることが認められ、以上の事実を総合すれば、利則方物置鏡台が家人以外の者により物色されたとはいいがたい。

イ 採取された指紋の場所及び個数

前項記載の各証拠によれば、利則方家屋から合計四五個の指紋が検出、採取され、内二四個が対照可能指紋であり、内二一個が対照不能指紋であるが、その採取された検体物件及びその個数は、六畳間の和タンスから一二個(袋棚三個、小抽出三個、長抽出六個)、同じく六畳間の布団棚から二個、ミシン上板から二個四畳半の間の炬燵の上の箸立、灰皿から各一個、三畳間囲炉裏の周囲にあつた煙草ケース、どんぶり、ブリキ盆、灰皿、白い瓶、カラカラ(銚子)、赤色湯呑(女物)、湯呑から各一個、土間側板張の上にあつた一升瓶から二個、馬小屋梯子から三個、土間の柱(前記かまどの南側、出入口戸の柱)から二個、四畳半と六畳間境の障子から三個(一番北側障子の南側桟から一個、北側から三枚目障子の南北の桟から各一個)、三畳間北側障子の東側桟、四畳半の間蛍光灯の球から各一個、三畳間東側佛だんの菓子箱、同タバコから各一個、宣伝用マッチから一個、三畳間北側にある膳棚の風呂敷箱から一個、四畳半の間炬燵の足二本から各一個、タンスの洋服棚から一個であつたことが認められる。

ウ 対照可能指紋、対照不能指紋(被告人の指紋不検出)

前々項記載の各証拠によれば、前記四五個の指紋のうち二四個が対照可能指紋で、うち二一個が対照不能指紋(現場から採取された指紋が指紋の一部分で、指紋自体が十分によく採取されていない指紋の意味で、対照指紋が存在しない指紋の意味ではない。)であるところ、右対照可能二四個の内、和タンスの袋棚、抽出からの七個、布団棚の一個、炬燵上の箸立、灰皿からの各一個、囲炉裏周囲のブリキ盆、灰皿、白い瓶からの各一個、土間の柱の二個、四畳半と六畳間境の障子(一番北側の障子)の一個、三畳間北側障子の一個、膳棚の風呂敷箱の一個、タンスの洋服棚の一個の計一九個がキヨ子の、囲炉裏周囲にあつた煙草ケース、湯呑からの各一個、板張の上にあつた一升瓶からの二個、計四個が利則の、囲炉裏周囲にあつたカラカラ(銚子)からの一個が近隣に住む吉原精造の指紋であり、被告人の指紋は検出採取されなかつたことが認められる。なお、関係各証拠によれば、右のように利則方から被告人の指紋が検出採取されなかつたのみならず、表面がなめらかな湯呑茶わんでお茶を飲んだとき、通常の飲み方なら指紋は付きやすいところ(当裁判所の証人末次文雄に対する昭和五七年一〇月八日取調の尋問調書一五〇項、別冊四冊)、三畳間囲炉裏の周囲には、盆の中に利則の指紋が採取された湯呑茶わんがふせておかれたほか、対照可能指紋が採取されなかつた赤色湯呑茶わん(女物)が立ててあるだけで、他に湯呑茶わんはなく、客用湯呑茶わんは洗つて土間にある台所に置いてあつた(当審証人下園菊雄に対する昭和五七年一〇月九日取調の尋問調書二八六ないし二九三項、同冊)というもので、被告人が飲んだという使いかけの湯呑茶わんは囲炉裏周囲に存在しなかつたこと、また、被告人が自供したようなお茶請の梅干または梅干の種もなかつた(右下園に対する同月八日取調の尋問調書二四項、同冊)ことが認められる。

(2) 血痕(特に東側障子の鴨居、床の間板壁、天井等にキヨ子の血液型とみられるA型血液は付着していたか)につき

司法警察員作成の昭和四四年四月三日付写真撮影の結果報告書(一〇冊二九七九丁)によれば、床の間、天井、東側障子の鴨居等からキヨ子の血液型と同じA型血液が採取されたとされていたのであるが(同冊二九八二丁)、原審公判段階における鑑定人牧角三郎の昭和四八年二月二二日付鑑定書(三冊八九一丁)によれば、前記のとおり、キヨ子の頭、顔面の創からその血液が飛散するということはなく、右報告書に述べられているような床の間、天井等にA型血液が付着することはない、とされていたものである。

当審における鑑定人牧角三郎作成の昭和五九年一〇月一八日付鑑定書(別冊二冊二五四丁)によれば、再度、床の間、天井等のA型血痕が付着していたとされる付近からの血痕採取を行ない検査を行なつたところ、東側障子の上の鴨居及び天井部分の二か所二個の血痕からA型血液が採取されたこと、右鑑定書並びに当審第一六、一七回公判廷における証人牧角三郎の供述(別冊一〇冊一八〇七丁、一八六二丁)によれば、東側障子の上の鴨居及び天井に付着していたA型血痕の形態、性状そのA型血痕と形態、性状が似ている付近の血痕の数量、程度、散在状態等からすれば、右鴨居、天井にA型血痕が生じた機転は、東側障子、床の間板壁の全面、布団棚等に無数に付着する血痕(殆んどがB型である。)の場合と異なり、打撃に用いられた棒状鈍器が皮膚を離断し創内に喰い込んでいる間に、創面から出た血液が棒状鈍器の接触面に付着し(ただし、その付着する血液の量はごく少量の筈である。)、そして、頻回の打撃行為の際、棒状鈍器が勢いよく振り上げられることにより棒状鈍器に付着していたごく少量の血液が飛散し生じたものであること、右のようにして飛散するA型血液は、棒状鈍器を振り上げる力により生じる遠心力により飛び散るのであるから、キヨ子に棒状鈍器で傷害を与えた犯人に、右のようにして飛散するA型血液が付着することはまず考えられない旨鑑定されたことが認められる。

(九)  まとめ

(1)  指紋につき

当裁判所の事実調の結果によれば、被告人の指紋は利則方から一個も検出、採取されなかつたうえ、被告人がキヨ子からすすめられ飲んだとする湯呑茶わんも梅干の種も発見されなかつたものであり、このことから、被告人がお茶をキヨ子からすすめられ飲んだということ自体が疑問となつてくる。また、利則方家屋は木造の古びた家で、雨戸、柱、建具等の表面が非常に荒く、ざらざらした粗面体の物で出来ており、指紋が付きにくく、検出しにくいとの供述部分が捜査官の証言中に存する(前記当審証人末次文雄に対する尋問調書一四七項、別冊四冊)ものの、しかし、前述のとおり、対照可能指紋がかまど南側出入口の土間の柱から二個、三畳間北側障子の桟四畳半と六畳間境の障子の桟等から検出、採取されているのであり、この事実に徴するとき、利則方家屋、建具には指紋が付きにくく、また、検出採取しにくいとして被告人の指紋が全く検出採取されなかつたことを説明しおおせるものではない。

被告人が飲んだとする湯呑茶わん自体発見されていないこと、当然立ち回つたことになるとみられるかまど南側入口の戸、囲炉裏の周辺、四畳半と六畳間境の障子、被告人が利則の手からもぎ取つたという包丁(指紋の検出作業はなされたが、発見できなかつたものである。)等から被告人の指紋が一個だに検出、採取されなかつたということは、被告人の自白にそれが真実であれば得られてしかるべきであると思われる裏付けを欠くものといわなければならない。

(2)  血痕につき

ア  前記(四)、(五)及び(八)・(2)によれば利則の頭部創傷の創口からは、動脈分枝からの、あるいは頻回の打撃の際の、血液の飛びはね、更には打撃に用いられた棒状鈍器に付着した血液の飛散等からその加害者に飛沫血痕が付着しない筈はない。しかし、被告人の自白によれば、利則の後頭部を馬鍬の刃で叩いたのはキヨ子であつて被告人ではない。利則の頭部創口から右のようにして飛散する血液がキヨ子に付着する可能性はあつても、被告人に付着することはないといえよう。

イ  被告人の自白によれば、キヨ子の頭部を馬鍬の刃で叩いたのは被告自身である。しかし、キヨ子の頭部創口から飛散する血液は前記(八)・(2)で当審証人牧角三郎が述べたとおりであり、そして、この場合は、加害者に付着する可能性は先ず考えられないというもので、結局、被告人が犯人だとしても、その飛び散る血液が被告人に付着しないことはありえよう。

ウ  前記(三)・(2)(3)記載のとおり利則の頭部、頸に巻きつけられたタオル、着用していた一番上のチョッキには多量の血液が付着し、チョッキ下に着ていた白カッターシャツには殆んど全面に飛沫状、落下状血痕が、その下に着ていた白メリヤスシャツ、丸首シャツには浸透状の血痕が付着し、また、利則が殴打され最後に倒れていたとみられる裁縫台の下部付近より床の間方向(利則の足方向)に向け凝固した糊状の多量の血液が畳の上に付着していたこと、キヨ子の頭部、顔面、その頸に巻かれているタオルには多量の血液が付着し、同女が一番上に着用していたネル寝巻の襟から肩、左右の袖にも多量の血液が、同女が右ネル寝巻の下に着ていた赤色Vネックセータの左前襟から左前、両肩から両袖にかけ多量の落下状血液が、その下に着用していたネルメリヤスシャツ、ネル肌じゆばんには多量の浸透状の血液がそれぞれ付着していたこと、そして被害者両名の肌着にその頭から流れる浸透状の血液が付着するのは、両名が打撃を受けたのち、しばらく立ち回つていたからとみられるところ、被告人の自白によれば、キヨ子を絞めたタオルは、三畳間囲炉裏横座付近から持つてきたものであるが、利則の頸を絞めたタオルは利則がマフラー様に頸に巻いていたというものであり、被告人が倒れている利則の頸を絞めるとき、そのタオルには同人の頭から流れ落ちる血液が多量に付着していたといえるものであり、そのタオルに付着していた血液が、被告人の手に付着しないはずはないというべきである。また、利則の頭部及び衣類には多量の血液が付着していたものであり、これらが、被告人が利則の頸を絞める段階で、被告人の着衣に付着することは充分考えられるものである。なるほど、キヨ子の場合は、血液の付着していないタオルで頸を絞めたというのであるから、そのタオル自体から被告人の身体、着衣に血液が付着することは考えられないにしても、同女の頸を絞める段階で、多量の血液が付着する同女の髪、着衣等に被告人の身体、着衣を触れさせず、いささかの血液もつけさずに終らすことは至難のことと考えられ、同女の血液が被告人の身体、着衣に付着したとみるのが合理的である。しかるに、被告人の周辺から被害者らの血液が付着した衣類等は全く発見されておらず、また、舩迫ヨシの捜査官に対する各供述調書によれば、被告人は、昭和四四年一月一五日夜午後一〇時ころから一〇時半ころまでには家に帰り、何ら変つた様子もなく、妻ヨシと雑談し、「だいやめ」(焼酎を飲みくつろぐこと)して寝たというものであつて(舩迫ヨシの司法警察員に対する昭和四四年四月一二日付(一二冊三四四四丁裏、三四四五丁)、同月一三日付(同冊三四五一丁裏、三四五二丁)、同月二〇日付(同冊三五〇一丁)、同月二五日付(同冊三五一〇丁裏、三五一一丁)、同年五月二三日付(同冊三五二一丁裏)各供述調書、同女の検察官に対する同年六月一二日付供述調書(同冊三五二九丁))、被告人の身体、着衣に被害者らの血液が付着していた事情は何ら窺えないものである。

検察官は、当審の弁論要旨において、被告人が本件犯行時いかなる服装をしていたか、被告人、被告人の妻、その他関係人の供述の間に不一致があり、結局、特定できず、その上、着衣等に関する裏付捜査は本件犯行の約三か月後の昭和四四年四月一三日以降からようやく開始されるという状況であつたため、その間、被告人がその着衣等を焼却、隠匿などして処分してしまつたのではないかとも考えられ、被告人の身辺から人血付着の着衣等が発見されなくとも不合理とは言えない旨主張するが、被告人の妻舩迫ヨシの司法警察員に対する昭和四四年四月一三日付供述調書によれば、「夫が本年一月一五日、一六日、一七日、一八日ごろ着ていた衣類その他持つている衣類でなくなつたものはないかといわれますが、よく調べてみましたが、夫の物は家に置いてある以外のものは二月一三日に出稼に出るとき全部持つてゆきなくなつているものはありません」(一二冊三四六三丁)と述べられており、他に被告人が血痕の付着した着衣等を焼却、隠匿した事実を推認せしめる証拠は何ら存しない。

以上のとおりであり、被告人の周辺から血痕の付着した着衣等が発見されないことにつき首肯すべき事情も認められないのに、これらの物が何ら発見されていないということは、被告人の自白について、これが真実であればその裏付けが得られて然るべきであると思われる事項に関し、客観的な証拠による裏付けを欠きその自白の信用性を疑わせるものというべきである。

6馬鍬の刃について

(一) 馬鍬の刃が本件犯行の兇器とされるに至つた経緯

(1) 被害者両名の死体を解剖した教授城哲男の成傷兇器に関する意見

教授城哲男作成の昭和四四年二月五日付(被害者キヨ子に関する)、同月六日付(被害者利則に関する)各鑑定書(一〇冊、二八九七丁、二八八五丁)によれば、被害者両名を昭和四四年一月一九日解剖した教授城哲男は、利則の頭部、キヨ子の頭部及び顔面に成傷させた兇器は、多少とも角稜を有する鈍器ないし鈍体である旨鑑定していたことが認められる。

(2) 被告人が馬鍬の刃を兇器と自供するに至つた経緯

被告人は、昭和四四年七月二日、キヨ子の頸をタオルで絞めて同女を殺した旨自供するに至つたのであるが(被告人の司法警察員に対する昭和四四年七月二日付供述調書、一三冊三六九三丁)、その際、右絞殺に至る経緯のなかでキヨ子が利則の後頭部を馬鍬の刃で殴つた旨供述し、その馬鍬の刃とは、農耕用の馬鍬につける刃であり、長さ三〇センチ位、根元の方が巾一センチ位、先の方が三ミリ位の矩形型のものである旨馬鍬の絵図を書いて説明したこと(同調書、三六九八丁、同調書添付図面三七〇〇丁)、被告人は昭和四四年七月四日、折尾キヨ子に対する殺人被疑事実で逮捕され(鹿屋簡易裁判所裁判官の発付した昭和四四年七月四日付逮捕状、一四冊三八六一丁)、同被疑事実に基づき同年七月七日勾留され(鹿児島地方裁判所裁判官の発付した同年七月七日付勾留状、同冊三八六三丁)ひき続き取調を受けるなかで、自己が馬鍬の刃でキヨ子を叩いた事実については秘匿していたが、同年七月一六日に至り、利則を馬鍬の刃で叩いたのはキヨ子自身であるが、自分がキヨ子を殺害する際は、六畳間で、まず同女の頭部を馬鍬の刃で殴り、同女が布団の上に倒れた後同女の頸をタオルで絞めた旨自供するに至つたこと(被告人の司法警察員に対する昭和四四年七月一六日付供述調書、一三冊三七六五丁)が認められる。

(3) 右被告人の自供に基づき、馬鍬の刃が押収されるに至つた経緯

司法警察員連名作成のまんがのこ領置報告書(一二冊三六〇四丁)、折尾長吉作成の昭和四四年七月三日付任意提出書(一二冊三六〇七丁)、司法警察員作成の同日付領置調書(一二冊三六〇八丁)によれば、被告人が昭和四四年七月二日、馬鍬の刃につき自供したことから、そのような馬鍬の刃により、被害者両名の頭部に成傷された挫裂創が生成可能かどうか鑑定の必要があつたため、捜査官は、昭和四四年七月三日午前七時三〇分、利則方炊事場側軒下にたてかけてあつた馬鍬からその刃一本を取りはずしえたので(他は固定してありはずせない。)利則の父折尾長吉立会の下、同人に任意提出させ、これを領置したこと(鹿児島地方検察庁昭和四四年領五九三号符号二三)、そして、本件に関する原審第一回公判廷(昭和四四年九月一一日)において、犯行に使用した兇器と同種のものとして証拠請求され(原審検察官証拠請求番号一四六)原審昭和四四年押第八六号符号三、まんがのこ(農耕用金具)一本として原審裁判所に押収されたことが認められる。

(4) 被害者らの傷は、押収されたものと同種の馬鍬の刃により成傷可能か

教授城哲男作成の昭和四四年七月一四日付鑑定書(一二冊三六〇九丁)、鑑定人矢野勇作成の昭和四四年八月二三日付鑑定書(一三冊三七九七丁裏)によれば、右押収された馬鍬の刃は、長さ三三・七センチ、重さ三〇〇グラムの鉄製の物体であり、一端の断面はほぼ矩形をなし、他の端は(先)鋭となつていて、矩形の大きさは二・一五センチ×〇・九五センチ、短辺の方向に少し突出しているものであるところ、①キヨ子の左側頭部耳介後方の挫裂創二個のうち長さ二・三センチ創縁が比較的正鋭なる第一創は、右馬鍬の刃の矩形の長辺の角稜で、長さ一・五センチ創縁やや不正の第二創、及びこの第二創に接して左耳介上四分の一に存する大きさ一・二センチ×〇・九センチの弁状創は右馬鍬の刃の矩形の短辺の角稜で、同じくキヨ子の後頭部正中より右側の長さ三・五センチの挫裂創、右頭頂部と後頭、側頭部との境界に存する弧の長さ二・五センチ弦の長さ二センチの半月形の挫裂創はともに右馬鍬の刃の矩形の長辺の角稜でいずれも成傷可能であり、同じくキヨ子の顔面右眉毛外端の長さ三センチの半月形の弁状創は、右馬鍬の刃の矩形の長辺の角稜で各成傷可能なものであり、②利則の後頭部全体にわたる少なくとも八個以上の複雑な形態の挫裂創は、右馬鍬の刃の長い角稜の部分により成傷可能である旨鑑定され、また、鑑定人牧角三郎作成の昭和四八年二月二二日付鑑定書(三冊八九一丁)によれば、被害者両名の創傷は、硬固な鈍体の角稜部や幅の狭い棒状部分の打撃により形成され得るものであり、ことに利則の創は狭い範囲に何回も打撲が繰り返されていることからみれば、その鈍体は手頃な重さ形状を持つたものではなかろうかと推測され、前記馬鍬の刃のような鈍体であればそのような頻回にわたる打撲行為を行うことは容易であろう、前記馬鍬の刃のような角稜を持ち、幅の狭い棒状部を有する鈍体であれば、被害者両名の創はいずれも容易に形成される筈である(同冊九一九丁表裏)旨鑑定している。

(二) 被告人が馬鍬の刃を兇器と自供する以前から捜査官においてこれを兇器としていたかの如き捜査官等の供述

原審証人舩迫弥平次(当時八五歳)に対する昭和四八年九月二七日取調の尋問調書中(四冊一一八四丁以下)には、「あなたの家の棚にあつた馬鍬の刃一本を警察が持つて行つたでしよう。」との被告人の質問に対し、同証人は「はい。」と述べ、「それはいつ持つて行つたのですか。」との被告人の質問に対し、「それは私の家を全部捜して、理由は言わずに、これ持つて行くから、また持つて来るから、といつて持つて行つたわけです。」と述べ、更に、被告人の「警察はそれを持つてきたですか。」との質問に対し、「いいえ、持つてきていません。」と述べ、これに被告人の原審及び当審公判廷における供述中の、取調検察官から昭和四四年六月中に馬鍬の刃を示された旨の供述部分をあわせると、あたかも被告人が馬鍬の刃について自供する(最初の自供は前記のとおり昭和四四年七月二日)前に警察が馬鍬の刃を押収していたかのように考えられないではなく、また、原審第二八回公判(昭和五〇年九月二二日)調書中証人大霜兼之(本件捜査を担当した検察官)の供述部分には、被告人を殺人被疑事実で取り調べる際に馬鍬の刃を示してきいた、それは勾留の二、三日前だつたと思う旨、または、それは逮捕状(発付は昭和四四年七月四日)を出す三日位前だと思う旨、そして自分もその馬鍬の刃というのがどういうものか知らなかつたので、同じ形のものを警察から持つてきてもらつた、警察がどこから持つてきたかわからない旨述べ(七冊二三〇三丁ないし二三〇五丁表)、被告人が馬鍬の刃につき自供した七月二日以前に警察が馬鍬の刃を押収していたことにもなるかのような供述部分が存し、更に差戻前控訴審第七回公判廷において、検察官は、「警察では(昭和四四年)一月一七日から一九日まで馬鍬の子を探しているのだが、」と被告人に質問し(同審第七回公判調書中、被告人に対する第五問)、捜査官が本事件当初から本件犯行の兇器は馬鍬の刃であると考えていたかのような質問をなしている事実が窺われる。

(三) 被告人が自供した馬鍬の刃に関する荷台からの落下実験及び捜索の結果

(1) 被告人は、差戻前控訴審第三回公判廷(昭和五二年一月二八日)において、「馬鍬の刃については警察では知らないといつた。自動車の荷台の腐蝕部分から落ちたということになつているが、警察のでつちあげである。自分から話してない。」(同公判調書中被告人の供述部分一〇九ないし一一四項、一六冊)と述べ、また、同審第七回公判廷(昭和五二年九月二七日)において、「馬鍬の刃を自動車に積み、落したと言つたことはない。」(同公判調書中被告人の供述部分一〇項、一六冊)とも述べているのであるが、被告人の捜査官に対する供述調書においては、馬鍬の刃を車の荷台に投げ入れ家へ帰る途中、郡境付近で長崎留雄と行きあい、その後、馬鍬の刃を捨てようと思い見たら、途中で落ちたのかみつかりませんでした(一三冊三七五五丁裏、同冊三七六七丁)と述べ、そして、馬鍬の刃を自分の車の荷台に置いた方法として、車の荷台に投げ入れた(同冊同丁裏)、運転台の位置からうしろの荷台の中に音のしないように投げ入れた(同冊三七七一丁表)、運転席の後横の方からそつと荷台に置いた(同冊三七八八丁表)などと述べていたものである。

(2) 被告人が使用していた車の荷台から馬鍬の刃の落ちる可能性についての実験結果

ア 司法警察員作成の昭和四四年七月一六日付実況見分調書(一二冊三五八七丁)、司法警察員連名作成の昭和四四年八月四日付実験結果の報告書(同冊三六四二丁)によれば、被告人が使用していた車の荷台の左右竪枠の内側にそれぞれ接して、後部から運転席方向へ幅一八・八センチ、高さ一六・五センチの高床が設けられているが、後部から運転席へ向い右側の高床には、その高床の後部より三六センチの所に、長さ六・一センチ、幅一・五センチの腐蝕脱落孔が横方向に存し、同方向左側高床には、その高床後部から運転席方向二九センチの稜線付近に、一辺四・五センチの正三角形状脱落孔があり、また、右二九センチのところから前方高床上に六・五センチ×八センチの長方形状の腐蝕部分が存しその大部分が脱落孔となつていること、後部竪枠には、運転席方向に向い左端から一七センチ低荷台より高さ七センチの所に五・三センチ×六センチの腐蝕脱落孔が、同じく右端から一八センチ、低荷台から八センチの高さのところに〈編注:左図〉形の腐蝕脱落孔が存し、幅八五センチ長さ一一四センチの低荷台部分には腐蝕脱落孔は存しないことが認められる。

イ 前記司法警察員連名作成の実験結果の報告書によれば、車からの脱落実験は次のようにして行われた。

すなわち昭和四四年八月一日午後二時一〇分より同日午後四時までの間、馬鍬の刃一三本及び籾の叺入一俵を左記のようにして積み、利則方から被告人宅へ向う途中の県道ガードレールのあるところ鹿児島県曽於郡大﨑町野方福岡部落内所在(被告人が馬鍬の刃を捨てようと思い車を停めたと述べていた地点)まで時速三〇キロメートルで計五回走らせ、うち①第一回ないし三回までは、荷台の左右高床に、運転席から後部にかけ一定の間隔を置きそれぞれ三本ずつ、低荷台の中心部に籾入り叺一俵を置きその上に馬鍬の刃一本、その叺の両脇の低荷台部に運転席から後部に向けそれぞれ三本ずつを置き、右各馬鍬の刃の頭(矩形の方)を運転台側にして実験、②第四回は一三本の馬鍬の刃の位置は右①の場合と同じ所に置き、馬鍬の刃の頭を車の後部に向け実験、③第五回は第四回と同じ方法で実験したが、この場合は後部から運転台方向に向い左側高床にある腐蝕脱落孔に一本の馬鍬の刃の鋭なる一端を少し突込み実験したこと、

右実験の結果、第一回から第四回まで左右両方の高床に置いた計六本は低荷台に落下したものの、地上に落下したものは一本もなく、また、籾入り叺の上に置いた馬鍬の刃は第二回の実験のときだけ低荷台に落下したが、第一回、第三、四回のときは落下せず、叺の上にそのままだつたこと、第五回の実験で腐蝕脱落孔に鋭なる一端を少し突込んでいた左側高床の馬鍬の刃は、郡境ガードレール近くまできて地上に落下したが、他の一二本は地上に落下せず、右一二本のうち叺上のものはそのままで、左右両高床のものは、後部から運転席へ向い右側高床のは三本とも低荷台に、同じく左側高床のは、運転席側一本が低荷台に落下したが、他の一本は低荷台に落下していなかつたことなどが認められる。

(3) 司法警察員作成の昭和四四年五月一五日付及び一八日付各捜査報告書(一二冊三五九八丁、三五九二丁)によれば、被告人を容疑者として昭和四四年二月六日から同年七月一五日までに合計一一回にわたり犯行現場から被告人方に至る道路の両側及び付近一帯の山林、畑、やぶ等につき綿密な捜索を繰り返したが、兇器と認められるもの及び血痕付着の衣類等を発見するに至らず、被告人が本件犯行を自白した後前記ガードレール付近に馬鍬の刃を捨てた可能性もあるとして、昭和四四年七月一七日午前一〇時から午後零時まで捜査員一〇名、同月一八日午前一〇時から同日午後三時まで捜査員一四名で右ガードレール付近を兇器発見器、強力磁石等を使用し藪払いする等して捜索したが馬鍬の刃は発見できなかつたことが認められる。

(四) 差戻判決の指摘

被告人の自白によると、被告人は、キヨ子が利則を殴打するのに使用した馬鍬の刃を用いて同女を殴打しその頸部を絞めて殺害したのち、右兇器を自車の後部荷台に投げ入れて帰宅の途につき、現場から約〇・七キロ離れた郡境付近で見たらこれが紛失していたというのであり、もしも右自白が真実であるとすれば、右兇器は、被告人車の後部荷台から、何らかの理由により路上へ落下したものと考えるほかはなく、差戻前控訴審判決は、右兇器が被告人車の後部荷台に存する腐蝕孔から路上に落下した可能性を否定することができないとしている。しかしながら、被告人車の後部荷台に放置された兇器が同車の車体の震動によりその腐蝕孔から路上に落下する可能性は、これを完全に否定することができないにしても、その蓋然性がきわめて小さく余程の偶然が重ならない限りそのようなことが起こるものでないことは、差戻前控訴審判決の引用する司法警察員作成の兇器の落下実験に関する報告書の記載自体に照らして明らかなところである。のみならず、右兇器とされるものは、全長三〇センチメートルに達する決して小さいとはいえない鉄製の棒(馬鍬の刃)であり、また、それ自体としてはほとんど財産的価値がなく第三者によつて拾得される蓋然性の乏しいものなのであるから、右兇器が真実路上に落下して紛失したのであれば、後日の捜索によりこれが発見されない合理的な理由はないように思われる。しかるに、記録によると、警察は、本件犯行発覚直後から犯行現場付近一帯について大量の捜査員を投入した大がかりな捜索をくり返し行い、とくに、被告人への嫌疑を深めた昭和四四年一月末ころ以降は、犯行現場から被告人方に至る道路の両側及び付近一帯の山林、畑、やぶ等につき綿密な捜索をくり返したほか、被告人が本件犯行を自白した後においては、右自白に基づき再度徹底した捜索をしたが、結局、本件の兇器らしいものはこれを発見するに至らなかつたとされている。被告人の自白は、その重要な点において客観的証拠による裏付けを欠くものといわなければならない。

右のとおり指摘している。

(五) 当裁判所の事実調

(1) 捜査官が意図的に馬鍬の刃を本件犯行の兇器としようとしていたか否かにつき

ア 本件の逮捕状請求書(別冊三冊五四二丁)、司法警察員作成の昭和四四年七月五日付領置調書(同冊五四四丁)、舩迫ヨシ作成の昭和五二年六月八日付還付請書(同冊五四五丁)、舩迫ヨシ作成の昭和四四年七月一六日付仮還付請書(同冊五四六丁)、司法警察員作成の同年七月五日付領置調書謄本(同冊五四七丁)、鹿屋警察署長作成の証拠品還付回答書(同冊五四八丁)、舩迫弥平次作成の昭和四四年七月一六日付仮還付請書(同冊五四九丁)、司法警察員作成の同年七月九日付領置調書(同冊五五〇丁)、舩迫弥平次作成の昭和五二年六月八日付還付請書(同冊五五一丁)によれば、鹿屋簡易裁判所裁判官に対し、キヨ子殺害を被疑事実とする被告人に対する逮捕状の請求がなされたのは、昭和四四年七月四日午前八時であつたこと、被告人宅から同年七月五日、馬鍬の刃八本付及び五本付の馬鍬の台二台が捜査官により領置され、馬鍬の刃八本付の馬鍬の台は昭和五二年六月八日還付され、同じく五本付の馬鍬の台は昭和四四年七月一六日仮還付、昭和五二年五月一九日仮還付のまま還付通知されたこと、被告人の父舩迫弥平次宅(鹿屋市下高隈町九一三番地、被告人の住居地と同一番地)から同年七月五日、馬鍬の刃五本、馬鍬の刃五本付馬鍬の桁(台)一個、馬鍬の刃六本付馬鍬の桁(台)一個が領置され、右馬鍬の刃五本は昭和五二年六月八日還付され、右馬鍬の刃五本付、同じく六本付の各馬鍬の桁(台)はいずれも昭和四四年七月一六日仮還付、昭和五二年五月一九日仮還付のまま還付通知されたこと、さらに、舩迫弥平次から昭和四四年七月九日馬鍬一個が領置され、昭和五二年六月八日還付されたことが認められる。

イ 当審第二三回公判廷における証人大霜兼之の供述によれば、原審第二八回公判廷で、被告人に馬鍬の刃を示し取調べたのは、被告人を殺人容疑で逮捕する三日位前だと証言したが、昭和四四年七月三日付折尾長吉作成の馬鍬の刃の任意提出書をみると、右のようにして自分が被告人を調べたのは昭和四四年七月三日である、同月二日被告人がキヨ子の殺害を自供し、同日その自白調書を取調警察官から見せられたが、その書かれている馬鍬の刃というものにつき自分としては見当がつかなかつたため、捜査官に(参考品として)馬鍬の刃をどこかで入手して持つてくるよう指示したところ、翌三日折尾長吉から任意提出を受けて持つてきた、その持つてきたものを示しながら被告人を調べた、その日は昭和四四年七月三日である(別冊一二冊二六八三丁ないし二六八七丁)旨述べている。

(2) 馬鍬の刃を発見できない事情につき

当審第七回公判調書中証人大霜兼之の供述部分によれば、馬鍬の刃は当時の高隈地区の農家では馬鍬の差替用として必需品であることが捜査の過程で分つてきた、馬鍬の刃が落ちていたら拾い自分の家に持ち帰り使うことがある、そこで、警察の方でも拾得者を探す捜査をしていたようだが、その捜査の徹底は欠いていたように思う(別冊六冊六六九丁ないし六七〇丁裏)旨述べている。

(六)  まとめ

(1)  捜査官は意図的に馬鍬の刃を本件犯行の兇器としようとしていたとの弁護人の主張につき原審及び当審で取り調べた証拠によれば、原審で押収された被害者利則方の馬鍬の刃(原審昭和四四年押第八六号符号三)、被告人宅及び舩迫弥平次宅から押収された馬鍬の台及び馬鍬の刃はいずれも被告人がキヨ子の殺害を自供した昭和四四年七月二日以後に押収手続がなされ、しかもこれらについての領置、仮還付、還付の手続がそれぞれ符合し、これら以外に押収された馬鍬の刃のあることをうかがわしめるに足るものがないこと、原審証人検察官大霜兼之は、本件で勾留する二、三日前、あるいは逮捕状の出る三日位前に被告人に対し馬鍬の刃を示して取り調べた旨述べた同一公判廷において、被告人は同検察官が本件についての事情をきいた最初の段階から終始一貫して犯行を認めており、これを否認したことは全くなかつた旨述べていること、本件逮捕状の発付、勾留請求及び勾留状の発付は前記のように昭和四四年七月四日、六日及び翌七日であるが、右原審証人大霜に対する尋問においては、証人が勾留する二、三日前といい、また逮捕状の出る三日位前といつて実質的に異なる供述をしているのに、勾留の二、三日前なのか、逮捕状の出る三日位前なのかについて確めることなく終つており、右証人の供述ぶりに照らし、逮捕状の出る三日位前という供述は、勾留状のでる三日位前の言い違いであつたと考えられる余地が充分あることなどにかんがみると、当審証人大霜兼之の当審第二三回公判廷における被告人に馬鍬の子(刃)を示しながら被告人を調べたのは、被告人がキヨ子殺しを自供した後である七月三日である旨の供述は、折尾長吉作成の昭和四四年七月三日付任意提出書の日付をみて日時を特定しているものではあるけれども信用できるものといえる。

なるほど差戻前控訴審第七回公判廷で、検察官は昭和四四年一月一七日から一九日にかけ馬鍬の刃を探していたかのような質問を被告人になしているのであるが、しかし、本件犯行が発覚したのが、同月一八日、その死体解剖に着手したのが、同月一九日で、右一七ないし一九日の段階では被害者らの創がいかなる兇器によるかその兇器の形状さえ判明していない時期であり、明らかに立会検察官の誤解による発問といえるものである。

また、原審の昭和四八年九月二七日取調の証人舩迫弥平次に対する尋問調書中には同証人の前記のような供述部分が存するが、同証人は捜査官がいつその馬鍬の刃を持つて行つたかの時期については述べていないものであり、当審取調の関係領置調書、仮還付請書等によれば、舩迫弥平次及び被告人方から馬鍬の台、その刃等が押収されたのは昭和四四年七月の五日及び九日であり、被告人がキヨ子の殺害を自供した同月二日以前に右馬鍬の刃等が押収されているものではない。

(2)  馬鍬の刃が発見されなかつたことと自白の信用性に関し検察官は当審弁論要旨六九丁裏において、馬鍬の刃が発見できなかつたのは、馬鍬の刃が地上に落下して第三者に拾得されたか、捜索漏れがあつたため発見されなかつたことによる旨主張するが、当審において、被告人が使用していた軽四輪車の荷台より馬鍬の刃が落ちる可能性については、原審で取り調べた証拠に現れている事実以上の立証はないところ、原審で取り調べた証拠(馬鍬の刃が落ちる可能性についての実験)によれば馬鍬の刃が落ちたのは、被告人使用車の後部から運転席へ向い左側竪枠の内側に接して設けられている幅一八・八センチ高さ一六・五センチの高床の後部より二九センチのところより前方にかけて存する六・五×八センチの腐蝕部分の脱落孔に馬鍬の刃の鋭なる一端を突込み走行させた場合のみである。ところで、被告人は捜査官に対し、車の荷台に馬鍬の刃を置くときの状況につき、「運転台のドアをひらく前に運転台の位置からうしろの荷台のなかにそろつと音のしないように投げ入れた」(一三冊三七七一丁)、「運転席の後横の方からそつと荷台に置いた」(同冊三七八八丁)とも述べているのであるが、運転席の後横の方から荷台(低荷台の広さは前記のとおり幅(左右高床の間)八五センチ、長さ一一四センチ)へそろつと音のしないように投げ入れるとき、馬鍬の刃(長さ三三・七センチ位、重さ三〇〇グラム位、一端は(先)鋭、他の一端は矩形(矩形の大きさは二・一五×〇・九五センチ位)のどちらかの一端が助手席側荷台竪枠の高床の前記腐蝕部分の脱落孔に突込まれる形でおさまるとは殆んど考えられず、その可能性が絶対ないとは言えないまでも、それは余程の偶然が重ならない限り起るものではない。運転席の後横から「そつと置く」という場合は、荷台の幅を考慮するとき、馬鍬の刃が右腐蝕部分の脱落孔に突込まれる形になることは、投げ入れたときよりも一層起り得ないと言えるものである。更に、荷台後部の竪枠にある腐蝕脱落孔は、前記のとおり、荷台部分より、それぞれ高さ七センチ、八センチのところにあり、また、荷台右側(運転席側)の竪枠高木の腐蝕孔は長さ六センチ、幅一・五センチであり、右いずれの孔も意図的に馬鍬の刃を差し込まない限り、その孔から馬鍬の刃が落ちる可能性はないものである。右のとおり、運転席の後横から荷台に投げこまれた、あるいは「そつと置かれた」馬鍬の刃が、前記腐蝕部分の脱落孔に突込まれた形になり車の走行中に落ちることは殆んど考えられず、余程の偶然が重ならない限り起るものではない。若しも自白のように路上に落下したのであれば馬鍬の刃は全長約三〇センチに達する決して小さいものとはいえず、それには濃厚な血などが付着しているはずであるから第三者が拾得して横領するとは考えられず、事件は三日目に発覚し、地域は農村であり、警察は大勢の捜査員を投入した大がかりな捜索をくり返し行つたのであるからこれが発見されない理由はない。しかるに犯行発覚直後から大がかりな捜査をくり返し、とくに昭和四四年一月末ころ以降は犯行現場から被告人方に至る道路の両側及び付近一帯の山林、畑、やぶ等につき綿密な捜索をくり返したほか、被告人が本件犯行を自白した後においては、右自白に基づいて再度徹底した捜索をしたが、本件の兇器らしいものはこれを発見するに至らなかつたとされている(司法警察員作成の捜査報告書一二冊三五九二丁、三五九八丁)のであるから、余程の偶然が重なつて走行中に路上に落下するというようなこと、さかのぼつて被告人車の荷台に馬鍬の刃を入れたというようなことはなかつたと認めるのが相当である。とすれば、被告人の捜査官に対する馬鍬の刃の処分についての供述は虚偽と考えられるが、キヨ子更には利則をも殺害したことを認めながらその兇器をどのように処分したかについて虚偽の供述をすることは、処分につき虚偽の供述をする特段の理由を認めがたい本件においては、まことに不自然であり、被告人の自白はこの点からも疑問視されるべきである。

(3)  捜査官が意図的に馬鍬の刃を本件犯行の兇器としようとしていた事実は認められず、また、被告人の馬鍬の刃の処分状況の供述が虚偽と考えられ、さかのぼつてその使用に関する自白が疑問視されるとすれば、最初に馬鍬の刃を兇器としたのはいずれの方か問題となるが、捜査官らはいずれも終始一致して被告人の供述によつて初めてその名も知りえた馬鍬の子(刃)であると述べており、同種馬鍬の刃、台についての押収がいずれも被告人の自白以後になされていること、前記の如く被告人は別件逮捕から長期間、長時間、連続的な厳しい自白追求の取調を八〇日余りにもわたつて受け、身体的、精神的に相当重い疲労状態にあつたから、そのなかで苦し紛れに自供するに至ることは充分考えられ、農民である被告人にとつて馬鍬は身近な農具であり、死体解剖鑑定書等によつて創傷の部位、程度、成傷兇器の種類及び成傷方法につき相当程度わかつている捜査官から追及を受け誘導されるなかで馬鍬の刃は充分連想しうる兇器ということができることから、兇器が馬鍬の刃であることを最初に言つたのは被告人の方であると考えられる。このことは右に述べたことからも明らかなように自白の信用性を裏付ける事由とはならないものである。

7客観的事実と自白の不一致、証拠上明らかな事実についての説明の欠落及び自白内容の不自然、不合理性について

(一)  客観的事実と自白の不一致等

被告人の自白中には、証拠により認められる客観的事実と一致する点もあるが、明らかに一致しない点が存する。

(1) 一致点につき

ア 被告人の捜査官に対する各自白(供述)調書によれば、馬鍬の刃で利則を叩いたのはキヨ子であるとのことであるが、教授城哲男作成の昭和四八年二月二二日付鑑定書によれば、利則の頭部に頻回の打撃を加えた加害者に利則の返り血が付かない筈はないというところ、前記認定のとおり、キヨ子が一番上に着ていたネル単衣には、利則の血液型であるB型飛沫痕が付着していること、

イ 被告人はキヨ子の誘惑に負け、同女と関係しようとしたとき、同女はパンツを脱いでいたと供述しているところ、前記のとおり原審で取り調べた証拠によれば、倒れていた同女の左下肢近くに、パンツと女物ネル袴下が別々に裏返しの状態で丸められた形でおかれ、その女物ネル袴下にはB型飛沫状血痕が付着していること、

ウ 被告人は、利則の頸を絞めるとき、同人の頭が縁側の方に寄りすぎ頸を絞めるのに不都合だつたので、同人の足を持ち、真中の方に引きずつた旨述べているところ、裁縫台の左脚部付近の血痕部分から死体発見時倒れていた利則の頭部のあるところまでの間に帯状の血痕が続いているのは、倒れた利則の頭部がはじめ裁縫台の左脚近くに位置していたのが、その後、足もとの方に引きずられたことを示唆すること(鑑定人牧角三郎作成昭和五九年一〇月一八日付鑑定書三六項、別冊二冊二八〇丁裏、二八一丁)、

エ 被告人は、キヨ子の頸を絞めるときは、同女が叩かれ倒れた後動いていたので、後からねじるようにして、同女が動かなくなるまで絞めて殺した旨述べ、利則の頸を絞める場合は、単にねじるようにして絞めた旨述べ、その絞め方に差異が認められるところ、前記原審で取り調べた証拠に現れているとおり、利則のタオルによる絞頸は死戦期に絞めたとみられるものの直接の死因ではなく、タオルを除くと項部における索痕の幅は約一センチ、前頸部の索痕は著しくないのに対し、キヨ子の死因は、兇器による頭部の殴打ではなく、絞頸に基づく窒息死にあり、そのタオルを除くと項部における索痕が著しく、その幅一・八センチ、前頸部にあつては下縁に沿つて線状の表皮剥離が著しいというものであつたこと、

以上のとおり認められる。

(2)  明らかな不一致点につき

ア 被告人の捜査官に対する自白(供述)調書によれば、被告人は本件犯行当夜とされる昭和四四年一月一五日夜、利則方を訪れた際、三畳間囲炉裏そばに一人でいたキヨ子(キヨ子は膳棚方)と対座する形で座り、茶請に梅干をもらいお茶を飲み話をし、そのうち(訪問後二、三〇分位)、同女から誘いを受けて六畳間に行き肉体関係を持つようになつた、キヨ子から誘われ床に入つてから、あのようなことになり、そしてあわてて帰つたので湯呑はそのままいろりの周りにおいてあると思う旨(一三冊三六八七丁以下、三七〇三丁以下、三七七五丁裏以下)述べているが、前記原審及び当審で取り調べた関係証拠によると囲炉裏の中の薪は灰に埋め込まれて火の始末がなされ、囲炉裏周辺には盆の中に、利則が使用していたとみられる湯呑茶わんは洗つて伏せてあり、キヨ子が使用していたとみられる赤色湯呑茶わんは立てて置かれていたものの、お茶が残つていたというような状態ではなくきれいになつており、客用の湯呑茶わんは土間の炊事場に洗つて置いてあり(前記司法警察員作成の昭和四四年二月二〇日付実況見分調書、一〇冊二九三四丁、証人下園菊雄に対する当裁判所の昭和五七年一〇月八日及び九日取調の各尋問調書、別冊四冊二〇六丁、二一七丁)梅干の種、梅干、梅干の入つているかめも発見されず(同じく証人曽山篤徳に対する当裁判所昭和五七年一〇月八日取調の尋問調書中、別冊四冊一九一丁)、土間にあるかまどの釜には米が洗つてあつたことが認められ、これらによると被告人の自白のように、被告人とキヨ子が囲炉裏の側で暖をとりながらお茶をのみ雑談しそしてそのまま六畳間へ移動し床に入つたところ、利則が帰つてきて犯行に及ぶに至つたという状況は、とても認めがたい利則方囲炉裏周辺の状態であることが認められる。

イ 被告人の捜査官に対する自白(供述)調書によれば、被告人がキヨ子から誘われ、六畳間で肉体関係を結ぼうとしたとき利則が帰つてきた、キヨ子が六畳間から四畳半の方へ行つたとき、利則は、自分とキヨ子の関係を察知し同女を殴り出した、同女が可哀相になつたので自分も隠れていた場所から出て行つた、旨述べられ、そして、以後、同女が馬鍬の刃で利則を叩き、被告人が同女を殺すという一連の行為となるところ、利則としては、被告人の車が狭い木戸道を塞ぐような形で駐車していることもあつて当然、被告人が遊びにきていることが分かつた筈であり、また、家の中に入つても被告人の履物もある(はずである)のに囲炉裏の側に二人(被告人及びキヨ子)とも居なかつたのであるから、おかしな雰囲気を感じとつたはずである。しかるに原審で取り調べた前記の司法警察員作成の昭和四四年二月二〇日付実況見分調書、教授城哲男作成の各解剖鑑定書(一〇冊)等によれば、利則は単車を裏庭の小屋にしまつてきてから家の中に入り、土間に地下足袋を整然と脱ぎ、三畳間囲炉裏横座付近でその身に付けていた帽子、軍手、靴下、ジャンパーを脱ぎ置いたという悠々とした状況がうかがわれ、更に、六畳間、利則の死体の右肩部分には利則が着ていたと思われるバンド付作業ズボン、黒ジャンパーが置かれていて、利則は六畳間で死体で発見されたときは、上半身外側に濃紺の背広チョッキ、その下に白木綿カッターシャツ等を着用し、下半身にはメリヤスのズボン下二枚を重ねて着用しており、被告人の自白のように外出先から帰宅してすぐに犯行に発展して行つたものとは認めがたい利則の服装の状態であることが認められる。

原判決は、利則の右のような服装その他から、利則は就寝しようとしていたもので、キヨ子と肉体関係を持とうとしていたのは利則であるとして公訴事実とは異なつた事実を認定しているものである(しかし、この点当審における事実調によれば、本件犯行前、キヨ子の敷布団は敷いてあつたものの、利則の敷布団は敷いてなかつたものと判断されるのであり(鑑定人牧角三郎作成の昭和五九年一〇月一八日付鑑定書三五ないし三七項、別冊二冊二七九丁裏ないし二八二丁)、利則は、就寝しようとしていたとは認めがたい)。利則の右のような服装は、被告人の自白からは説明がつきがたいものである。

客観的事実と自白の一致点及び不一致点の主要なものについては、以上述べたとおりであるが、前記(1)一致する点のアないしエについては、捜査官において、あらかじめ知り得なかつた事情とは言い難いこと明らかであり、却つて、前記(2)の各不一致点は被告人の捜査官に対する自白で述べる状況と矛盾するような客観的事情であり、これらは被告人の自白に疑問をいだかせ、その信用性を減殺する事情として軽視できないものである。

(二)  証拠上明らかな事実についての説明の欠落

(1) 前記(5(三)血痕の付着状況とその血液型)のとおり利則方三畳間北側障子の桟、物置(縁側)、鏡台の抽出、かまどと出入口の戸の間にある薪一本、その出入口東側の柱にはいずれもA型血痕が付着しているのであるが、被告人の捜査官に対する自白によれば、キヨ子(血液型A)は利則から傷を受けた状況がうかがわれず、被告人から馬鍬の刃で叩かれ出血し出した後、キヨ子は倒れて動かなくなつているので、右各A型血痕は犯人に付着した血痕が犯人の動きにより付着したものと考えられるのであるが、これらの点について被告人の説明はなされていない。

(2) 前記(5(一)本件犯行現場の状況)のとおり、キヨ子の死体はうつぶせになりパンツも着けていないまま、着衣のネル単衣が腰までまくり上げられ、仰向けにしてみるとこれまたへその部分までまくり上げられた状態で発見されたものである。ネル単衣がへその部分までまくり上げられている点につき、当審における鑑定人牧角三郎の昭和五九年一〇月一八日付鑑定書三八項(一)(別冊二冊二八二丁)によれば、キヨ子は敷布団の上に倒れたのち、足もとの方に引きずられたものであるとの鑑定がなされているが、右ネル単衣のまくり上げられている状態は、実況見分調書(一〇冊二九三四丁)中の写真からいつても敷布団の上にうつ伏せに倒れたキヨ子の死体が足もとの方に引きずられるだけで生ずるような程度、形態のものとは認められず犯人によつて何らかの作為が加えられたことを端的に示していると思われるのに、被告人の自白においては、右ネル単衣に関する作為はおろかキヨ子の死体を足もとの方へ引つぱつたとの説明すらなされていない。

(3) 利則の服装は、前記((一)(2)イ)のとおり、利則が身につけていたと思われる衣類等の置かれている状況と被告人の自白との間に矛盾を生じ、何故、利則が身につけていたと思われる帽子、軍手、靴下、ジャンパーが三畳間囲炉裏横座付近に脱ぎ置かれ、同じくバンド付作業ズボン、黒ジャンパーが六畳間の利則の死体の右肩部に置かれ、更に利則が上半身に濃紺の背広チョッキ、その下に白木綿カッターシャツ、下半身にメリヤスズボン下を着用するという脱衣途中といえるような服装になつたのは、どの時点からであり、どうしてそうなつたのかなどについて、被告人の説明が一切なされていない。

以上、重要な事実について説明が欠落していること、しかも記録及び事実取調の結果によるも、その説明が何故欠落しているかについて首肯すべき事情が明らかにされていないことにかんがみると、この点もまた、被告人の自白の信用性を疑わせる事情であるというべきである。

(三)  自白内容の不自然、不合理性

被告人の自白は、本件犯行及びその前後の状況を、一応詳細かつ具体的に述べるものであり、その述べるところには、犯行現場の状況等客観的な事実と符合する部分もあり、一見その信用性を肯定してよいようにも思われる。しかしながら、前記のとおり指紋、血痕、馬鍬の刃等被告人の自白が真実であれば当然その裏付けが得られて然るべきであると思われる事項に関し、客観的な証拠による裏付けが欠け、また、当然なされるべき証拠上明らかな事実について説明を欠く等問題点を包蔵しているのみならず、被告人の自白内容には、不自然、不合理で常識上にわかに首肯し難い点が多々認められる。

(1) 被告人の捜査官に対する自白によれば、被告人は本件犯行当夜の午後八時半ごろ、利則の自宅において、それまで一度も肉体関係のなかつた同人の妻キヨ子から誘われるまま同女と情交を遂げようとしたというものであるが、当夜被告人は、利則がテレビの修理のことで外出していると同女から聞かされていたというのであるから、いかに利則の不在中であるとはいえ、その帰宅の容易に予測される時刻に、同人の自宅でその妻と情交を遂げようとしたのは非常識であり不自然である(被告人が本件犯行日より以前にキヨ子と肉体関係があつたことを認めるに足りる証拠はない。なるほど、被告人は原審第一回公判廷において、昭和四四年一月三日、キヨ子と同衾したことがあると供述しているが、同公判廷における被告人の供述は前記3(五)にもふれたとおり他の証拠と矛盾し不合理な内容のものであり、原審第二六回公判廷(昭和五〇年七月一〇日)において「キヨ子との肉体関係はない、第一回公判で述べたことは病気であつたことから全然ないことを言つた。今ここで訂正する。」と述べ、また、捜査官自身、「四四年一月三日には被告人はキヨ子、その両親と酒盛りを少しやり、そのあとその両親を親戚へ送つているので同日にキヨ子と肉体関係があつたとは認められない。」と述べているところでもある(原審第四回公判調書中証人浜ノ上仁之助の供述部分、一冊三三〇丁裏、三三一丁))。

(2) 被告人の自白によれば、利則と争いとなり、同人から包丁で右手首に傷つけられたので、所持していたちり紙で止血し、その後、車で帰る途中、郡境のガードレール付近で車を停めたとき、血止めをした手を見たところ、血も止まつていたのでちり紙をとり投げ棄てたと述べるのであるが、しかし、右のようにちり紙で止血してからちり紙を投げ捨てる迄の間に、同じく被告人の自白によれば、前記のとおり、六畳間から「殺してしまつた」と言つて四畳半の間の方に出てきたキヨ子から馬鍬の刃を取り上げ、「何で殺すのか。」と言つて空いている方の手でキヨ子を殴り、それからキヨ子と共に六畳間に入つて行き、利則の足をひつぱり同人がマフラーのようにして頸にかけていたタオルで同人の頸を絞め、次いでキヨ子と共に三畳間に行き、キヨ子が炊事場で利則が自分に切りつけた包丁を始末しているとき、同女を殺そうと決意し、横座付近にあつたタオルをひろい上げて持ち、同女を六畳間に連れて行き、持つていた馬鍬の刃でキヨ子に対し夢中で数発殴り、倒れた同女の頸に持つていたタオルを回わしてまき、動かなくなるまで絞めて殺し、同女の上に布団をかぶせ、馬鍬の刃を持ち、かまど横の出入口から出て、木戸道に停めている車の所に行き、車の荷台に馬鍬の刃を置き、そして、郡境まで車を運転して行つたという経過であるから、右の間止血のためのちり紙がとれなかつたというのもまことに不自然である。

(3) 被告人の自白が真実であるとすれば、前記5・(九)・(2)ウのとおり利則あるいはキヨ子の血液が被告人の身体あるいは着衣に付着しないはずはないと思われ、また、前記(4・(一)・(二))記載のような傷痕を残すような被告人自身の右手首からの血が少なくとも右手首あるいはその周辺の着衣に当然付着していたと思われるから、その直後に着衣の着替、水洗、処分、身体の清拭等がなされるとともに、家人にも感知されないようにするためすぐにも寝るなどの行動があつて然るべきである。しかるに、被告人の妻ヨシの司法警察員に対する昭和四四年四月一三日付(一二冊、三四四九丁)同月二〇日付(同冊三四九七丁)同月二五日付(同冊三五〇五丁)同年五月二三日付(同冊三五二〇丁)同人の検察官に対する同年六月一二日付(同冊三五二六丁)同年七月一九日付(同冊三五三三丁)各供述調書によれば、被告人は昭和四四年一月一五日夜一〇時ころから一〇時半ころまでには家に帰り、囲炉裏の横座に座り、焼酎を湯で割りコップ二杯のみ、翌日の仕事の段取り等について妻と約一時間位いつもと何ら変りなく話し、そして寝たというもので、右事実に照らすとき、被告人の自白は不自然である。

以上(1)ないし(3)の自白の不自然さは、その自白の信用性を減殺する事情として軽視することができないものである。

8犯行時刻とアリバイについて

(一) アリバイに関する被告人の供述

(1) 捜査段階において被告人が供述していた昭和四四年一月一五日夜及び同月一七日夜の被告人の行動

ア 昭和四四年一月一五日夜の行動

被告人は、捜査段階(とくにキヨ子殺害を自白した後)においては、昭和四四年一月一五日夜の行動につき、被告人の司法警察員に対する昭和四四年七月一〇日付供述調書(一〇冊三七三四丁)では、上別府部落(上別府部落の関係者の所在地、被害者利則方のある田方部落及び被告人方の所在地関係は別紙第三図のとおり)の脇かづ子方に昭和四四年一月一五日夕方籾買に行き、同女方でテレビを見た後、買つた籾を車の荷台に積み同女方を午後八時一〇分ころ出た、県道に出て北方自宅方向に向い上別府公民館をすぎ、新原清則方付近の墓地の前で田方部落の小倉肇を乗せ、同人方へ入る小径付近の県道上で同人を降し、その後進行途中、時間が早かつたので利則方へ寄つた、そのころの時刻が午後八時二〇分か三〇分頃である、それから約二〇分位キヨ子と雑談したのち、キヨ子と肉体関係を持とうとしたのが午後九時前ころである、そして利則が帰つてきて前記自白したような利則、キヨ子の殺害問題が起き、車で家に帰つたのが午後一〇時ころである、その利則方から帰る途中郡境付近で長崎留雄と会つた旨述べ、また、被告人の司法警察員に対する昭和四四年七月四日付供述調書(一〇冊三七二一丁)では、同年一月一五日夜自宅に帰りついた時刻については述べていないものの、キヨ子を殺害し、同女方炊事場かまど横の出入口から出て、持つていた馬鍬の刃を車の荷台に投げ入れ、そこを出発したのが午後一〇時すぎころである旨述べ、更に、被告人の検察官に対する昭和四四年七月二四日付供述調書(一〇冊三七七八丁)では、キヨ子を殺害し車で家に帰りついたのは午後一〇時半すぎだと思うが判然とした時刻は判らない、とも述べていたものである。

イ 昭和四四年一月一七日夜の行動

被告人の司法警察員に対する昭和四四年四月一六日付供述調書(一六冊四五〇〇―一一丁)によれば、被告人は、同年一月一七日夜の行動につき、午後五時半すぎころ竹を切らせてもらう相談で折尾長吉方に行き、次に竹切りの人夫のことで上別府部落の脇かづ子方に行つた、右脇の紹介で同じ上別府部落の山下吉次郎(山下ミカの夫)方と吉原義治(吉原君子の夫)方を訪ねることになり、右山下方には脇別府政義(脇別府ツギの夫)方の庭に車を停めて行つた、右山下方に居るとき田方部落の吉田正が畳を積んでくれないかと言つて来た、午後七時ころ右山下宅を出て車で右吉原宅に行き、同人宅を午後七時四五分ころ出た、そのまま家に帰る途中、田方部落の利則方へ立寄つてみようと思い、同人方の木戸口から庭のかこいのあるところまで行き利則君と呼んだが返事がないので帰り、その途中徳満辰夫(雄)方でテレビを見て同人方に午後一〇時ころまでいた、そして、家に帰つた旨述べていたものである。

第三図(12冊3586丁参照)

昭和57年(う)第114号

本件現場周辺見取図

(2) 公判段階において被告人が供述する昭和四四年一月一五日夜及び同月一七日夜の被告人の行動

ア 昭和四四年一月一五日夜の行動

被告人は、捜査段階においては、昭和四四年一月一五日夜の行動につき前記(1)アの如く述べていたのであるが、原審第一回公判廷では、本年一月一五日午後九時半ころ利則方へ行つたら夫婦共殺されておりました、おそろしさですぐ同人方を出た旨供述し、同期日後、第二回公判期日前である同年九月二七日ころ、被告人を取調べた警察官浜ノ上仁之助に対し、右一月一五日夜のアリバイを主張し始め、原審第七回公判廷(昭和四五年九月一日)において、同日夜(一月一五日夜)の行動につき、午後六時四〇分ころ脇かづ子方に籾買に行き、テレビのプロレスを見て、それが終りしばらくして午後八時一五分か二〇分ころ竹切りの人夫のことで山下ミカ方へ行つた、同九時二〇分ころ同人方を出て、脇別府政義方に車を置いていたので同人方で一〇分間位話をし、次に吉原君子方に同九時三五分ころ行つた、同人方を同九時五〇分ころ出て、県道を自宅へ帰る途中、新原清則方付近の墓地の前で小倉肇を乗せた、同人を乗せ二〇メートル位進んだとき輝北町の一〇時のサイレンを聞いた、自分の家には同一〇時一〇分ころ帰つた旨(二冊五二五丁以下)述べ、

イ 昭和四四年一月一七日夜の行動

被告人は、同じく原審第七回公判廷において、同日夜の行動につき、午後五時半ころ、折尾長吉のところに竹山の場所を聞きに行き、同五時四五分ころ同人宅を出て、同五時五〇分ころ竹切り人夫のことで脇かづ子方に行つた、同六時二〇分ころ同人宅を出て同六時二五分ころ脇別府ツギ宅に行き、同七時半ころ同人宅を出た、同七時三五分ころ吉原君子宅に行き同七時五〇分ころ同人宅を出た、その晩は自宅でテレビのプロレスを見るつもりでいたが、吉原君子宅に行き遅くなつたので、帰りがけ利則宅に寄り木戸まで行つて「利則、利則」と呼んだが返事がなかつたので帰つた、そして、徳満エミ子(辰夫の妻)方でプロレスを見せてもらい、午後一〇時すぎ同人方を出て家へ帰つた旨(二冊五二五丁以下)述べ、結局、公判段階においては、捜査段階で述べた昭和四四年一月一七日夜の行動が、後記のとおり本件犯行当夜とされる同月一五日夜の行動である、と述べるに至つたものである。

しかし、この点については、原審裁判所取調の関係各証人の尋問調書、即ち、原審証人脇別府政義、同脇別府ツギに対する昭和四五年七月一六日取調の各尋問調書(二冊四四五丁、四五四丁)によれば、同人らは、被告人が車を置かせてくれと言つて来たのは、昭和四四年一月一七日午後五時半ころで、同月一五日には来ていない旨を、原審証人山下吉次郎、同山下ミカに対する昭和四五年七月一六日取調の各尋問調書(同冊四六一丁、四六七丁)によれば、同人らは、被告人が竹切り人夫のことで訪ねてきたのは昭和四四年一月一七日夕方であつて同月一五日夜ではなく、吉田正が被告人に畳を積んでくれと言つて訪ねてきたのも右一七日夜である旨を、原審証人吉田正に対する昭和四五年七月一六日取調の尋問調書(同冊四七四丁)によれば、同人も、山下吉次郎方に被告人を訪ね畳を積んでくれるように頼んだのは一月一七日夜である旨をいずれも述べ、また原審証人吉原義治、同吉原君子に対する昭和四五年七月一六日取調の各尋問調書(同冊四八二丁、四八八丁)によれば、同人らは、竹切り人夫のことで被告人が相談にきたのは一月一七日夜である旨述べ、更に、原審証人小倉肇、同徳満武夫に対する昭和四五年七月一六日取調の各尋問調書(同冊四九四丁、五〇三丁)によれば、証人小倉は、一月一五日夜猟友会会員の会合が上別府部落の新原清則方であり、宴会の後同日午後七時すぎ八時前ころ同じく会員である徳満武夫と共に右新原方を出た、そして、県道に出たとき、右徳満とは左右に分れ、自分は、県道を北側に上別府公民館をすぎ右新原方付近の墓地近くにきたとき、被告人から車に乗せてもらつた(乗せてもらつた位置については別紙第三図参照)旨を、証人徳満も証人小倉と同じく、新原清則方での猟友会の宴会の後、同人方を小倉と共に出た、その時刻は午後八時すぎころである、新原方の県道までの木戸道(約二〇間位)を小倉と共に歩いて県道に出たところで左右に別れた旨をそれぞれ述べており、これら各証人の供述にかんがみると、被告人が公判段階で述べる昭和四四年一月一五日夜の行動は、直ちには措信できるものではない。

(3) しかしながら、被告人の供述が措信できない部分は、昭和四四年一月一五日夜脇かづ子方を出た午後八時一〇分ころから自宅に帰り着くまでの間のことであり、被告人は、前記のとおり、捜査段階においては、同日夜午後一〇時過ぎころには家に帰つた旨、あるいは車で家に帰りついたのは午後一〇時半すぎだと思うが判然とした時刻は分らない旨述べ、アリバイに関し具体的に供述した原審第七回公判廷においても、自宅に帰り着いたのは午後一〇時一〇分ころであると述べている。被告人の妻ヨシの司法警察員及び検察官に対する各供述調書によれば、昭和四四年一月一五日夜夫が帰宅したのは、午後一〇時ごろと思う(同女の司法警察員に対する昭和四四年四月一二日付供述調書中、一二冊三四二一丁裏)、同一〇時半ころである(同昭和四四年五月二三日付供述調書中、同冊三五二一丁裏、同女の検察官に対する同年七月一九日付、同年六月一二日付各供述調書中、同冊三五三三丁裏、三五二八丁裏)、午後一〇時のサイレンをきいて暫らくして夫が帰つてきて囲炉裏の横座にすわり焼酎をのみ始めた、薪で火をたき出してから夫が手からはずして囲炉裏端においた腕時計をみたら同一〇時三〇分であつた(同女の司法警察員に対する同年四月一二日付供述調書中一二冊三四四五丁、同月二五日付同供述調書中同冊三五一〇丁裏)、夫が帰つてきて囲炉裏の横座にすわり焼酎をのみ始めた、火をたく等しているとき夫が外した腕時計をみたら一〇時三〇分か一一時ころであつた(同じく同四四年四月一三日付供述調書中、同冊三四七四丁裏、同月二〇日付同供述調書中、同冊三五〇一丁)旨述べ、また、被告人が利則方から帰りがけ郡境近くですれちがつたという長崎留雄の司法警察員に対する昭和四四年六月九日付供述調書(一二冊三三五二丁)、原審受命裁判官の証人長崎留雄に対する昭和四九年一二月二〇日取調の尋問調書(六冊一八二四丁)によれば、同証人は昭和四四年一月一五日午後一〇時少し前ころ、郡境付近でものすごいエンジンの音がする軽四輪自動車とすれちがつた、家に帰りついたとき午後一〇時のサイレンの音をきいた旨述べているものであり、以上各供述記載からすれば、被告人は、昭和四四年一月一五日午後一〇時(少し前)ころ郡境(別紙第三図記載のとおり利則方と被告人宅の中間)付近で長崎留雄とすれちがい、午後一〇時過ぎころ自宅に帰つたものと認めるのが相当である。

ところで、原審の昭和四八年一〇月一七日付検証調書(五冊一二九一丁)によれば、利則方木戸道木戸扉のあるところから被告人方までの距離は約一六四〇メートルであり(右利則方木戸扉のところから郡境まで約七〇〇メートル、郡境から被告人方まで約九四〇メートル。)、時速平均三〇キロメートルで走行したときその所要時間は木戸道の徐行等を考慮しても四分位であり、これに、犯行場所である利則方六畳間から被告人が車を駐車させていた木戸扉付近までの時間、被告人方近く車道上で籾を車から降し、その車を父弥平次方庭に入れ(原審昭和五〇年六月九日付検証調書(七冊二〇九四丁)によれば、籾を降ろした地点から車を入れた父弥平次方庭までは約三七メートル、右籾降ろし地点から自宅まで約二〇メートルである。)、そして、自宅近く車道上に降ろしていた籾をかつぎ自宅に至るに要する時間を加算し考慮するとき、その合計所要時間は一〇分位と認めるのが相当である。

(二) 原審証拠に現われた本件犯行時刻

(1) 教授城哲男作成の昭和四四年二月五日付及び同月六日付各解剖鑑定書(一〇冊二八九七丁、二九〇九丁)によれば、利則、キヨ子の死体はいずれも死後解剖着手時まで(利則の解剖着手は昭和四四年一月一九日一六時五分、キヨ子のそれは同日一三時一五分)の経過時間は大約一日以上三、四日以内と推測される、と鑑定され、利則の胃内容物は米飯、椎茸、おろし大根、菜つ葉、落下生等一七〇ミリリットルの食物残渣を認め、消化の程度はかなり進んでいる、胃粘膜に異常なし、胆のう胆汁は少量にして鮮黄色、粘膜に病変なし、同人の死体心臓血からは〇・〇〇一八‰(パーミル)、膀胱尿からは〇・〇七二‰の酒精が検出された、キヨ子の胃内容物は多量のうどん、菜つ葉、椎茸、大根漬等の食物残渣を認め、消化の程度は著しくない、胃粘膜に異常なし、胆のう胆汁は少量にして鮮黄色、粘膜に病変なし、同人の死体心臓血からの血中酒精濃度は〇・一七一‰と鑑定されていたこと、

(2) 司法警察員、司法巡査連名作成の昭和四四年七月九日付捜査報告書(一二冊三三七六丁)によれば、利則は同年一月一五日夜鹿屋市上高隈町四五八番地北方重雄方の立本電気こと立本静男方にテレビ修理の依頼に行つたが、不在であつたので引き返す途中、同市下高隈町五六九番地の叔母久留ウメ方に立寄つたこと、久留ウメの司法警察員に対する昭和四四年六月三〇日付(一二冊、三三三九丁)、検察官に対する同年七月一九日付(同冊三三五〇丁)各供述調書によれば、利則は同年一月一五日午後六時四五分ころ「立本電気屋へテレビの修理のことで行つたが留守だつた。」等と話しながら久留ウメ方を訪れ、午後七時からのプロレスをテレビで見始め、同七時二〇分ころにはおろし大根を添えた焼いたあじ一尾をさかなに七勺入りコップ七合目位の焼酎をお湯で割り飲みながらテレビを見ていたものであり、そして、同七時三〇分ころ、厚さ五ミリ位の味つけたこ一五切位があじの横に添えられ、利則は、同七時五五分ころ、右各さかなを食べ終り、また焼酎を飲み終え、同八時一五分か二〇分ころ右久留方を出たこと、右昭和四四年七月九日付捜査報告書によれば、利則は右久留方を出てから途中他の家へ立寄つた形跡はなく、自宅へ真直ぐ帰つたことが窺われるところ、右久留方から利則方までは約二一三八・五メートルあり、徒歩では約二七分三〇秒、単車で時速二五キロメートルで走行したとき約五分二五秒を要するので、右久留方を午後八時一五分に出たとすると、徒歩では同八時四三分ころに、単車で時速二五キロメートルの場合は同八時二一分ころには利則は自宅に着いたといえるが、結局、利則については、昭和四四年一月一五日夜前記久留方を出てから後の足取が確認できなかつたこと、また、キヨ子については、善福時義の司法警察員に対する昭和四四年六月三〇日付供述調書(一二冊三六三四丁)によれば、昭和四四年一月一五日午後六時ころ、テレビを見せてくれと言つて右善福方を訪ねてきたが、すぐ帰つたというものであり、司法警察員作成の昭和四四年七月一日付捜査報告書(一〇冊二八四三丁)によれば、右のようにして善福方を去つた後の足取が判明しなかつたこと、

(3) 原審昭和四四年押第八六号符号四の一、男物腕時計(バンド付)一個、同符号四の二、右時計の秒針一個、司法警察員作成の昭和四四年二月二〇日付実況見分調書(同調書中、二九五四丁)によれば、利則は死体で発見されたとき左手に腕時計(セイコースポーツマンカレンダー付一七石、以下「本件腕時計」という。)をはめていたのであるが、同時計のガラス、短、長針は飛散し、その日付は一五日より一六日にカレンダー日車が移動する時間帯に停止していたこと、捜査官の鑑定嘱託に基づく警察技師矢野勇男、警察官宮山敬博連名作成の昭和四四年二月一四日付鑑定書(一〇冊二九二七丁裏)によれば、①本件時計には三時から八時方向に向け傷が三か所(竜頭のある三時付近、七時と八時の間、右二か所を結ぶ線のほぼ中央付近)みられるところ、右三時付近、七時と八時間の二か所の傷は、金属体の打撃による傷と考えられること、②カレンダー日車の回転から見てその停止時刻は一五日午後一一時四五分頃と推定すること、③テンプのネジが外れ、竜頭を回しても空まわりし心棒が折れており、ぜんまいの心棒ネジを回しても空まわりすることなどから、本件腕時計は破壊されたのちは動いていないと鑑定され、また、同じく捜査官の鑑定嘱託に基づく上迫和典(日本時計師会公認高級時計師)の昭和四四年七月四日付鑑定書(以下「第一次上迫鑑定書」という。)(一〇冊二九〇九丁)によれば、本件腕時計には内部構造上九か所の故障があるが、その原因は衝撃以外には考えられず、その衝撃の程度は異常であること、本件腕時計の故障箇所は、いずれも動くための主要部分であるから、打撃によりこれらの故障が生じた後機械として動きは考えられないこと、カレンダーの表示実験及び分解検査による日送車の爪位置からでは、その停止時刻は一月一五日午後一一時前後と考えられるが、本件腕時計の機種のカレンダー機構及び故障の状況からみて日車(カレンダー日板)が衝撃を受けた瞬間にずれが出なかつたとは言い切れず、日の裏車のカナ外れの故障があるので、衝撃後に日送車の爪位置がずれた可能性があること、右、の二点を考慮に入れると、本件腕時計は午後八時ころから午後一二時ころまでの間に停止したと考えられる、と鑑定されていたこと、

以上の各事実が認められる。

(三) 差戻判決の指摘

差戻前控訴審判決は、本件犯行の日時について、「昭和四四年一月一五日午後八時二〇分ころから同日午後一二時ころまでの間」という幅のある認定をしており、右認定は、上迫和典作成の鑑定書(第一次上迫鑑定書)など差戻前控訴審判決の引用する各証拠に照らして、一応これを是認することができる。ところで、被告人の主張する犯行当夜のアリバイのうち、同日午後八時すぎころから午後一〇時ころまでの間、脇別府政義方、山下吉次郎方などを歴訪していたという部分について、これを支持すべき明確な証拠の見当らないことは差戻前控訴審判決の指摘するとおりであるが、被告人がおそくとも同日午後一〇時ころには帰宅していたことは、被告人及びその妻ヨシが捜査の初期の段階から一貫して供述していたところであつて、これに反する証拠は見当らないのみならず、右各供述を裏付ける第三者の供述も存在する。したがつて、右犯行時刻が同日午後一〇時ころ以前であつたのか午後一〇時ころ以降であつたのかは、被告人のアリバイの成否を決するうえで、決定的ともいえる重大な意味を有する事実であるといわなければならない。そこで、右の観点から証拠を検討してみると、本件犯行が同日午後一〇時ころ以前であつたことをうかがわせる証拠としては、利則が左手にはめていたカレンダー付腕時計の日送車の爪の停止位置などから犯行時刻を「一月一五日午後八時ころから午後一二時ころまでの間」と推定する前記上迫鑑定のほかには、被害者両名の死体の解剖結果等に基づきこれを同日午後九時ころと推定する捜査官の推測的な供述があるだけであり、右の点については、これ以上の解明がなされていない。しかして、記録によると、利則は、一月一五日午後七時すぎころから八時ころにかけて、叔母の久留ウメ方で焼魚一匹、たこ一五切及びおろし大根をさかなに、焼酎五勺ないし六勺を飲み、午後八時すぎに帰途についたことが明らかである。しかるに、城哲男作成の利則の死体の解剖鑑定書によると、その胃内容物は、「米飯、椎茸、おろし大根、菜つ葉、落花生等の食物残渣」のみであつて、その中には、久留方で食したとされる焼魚やたこは見当らず、しかもこれらの胃内容物の「消化の程度はかなり進んでいる」が、胃の「粘膜に異常はない」とされている。また、右解剖結果によれば、同人の心臓血及び膀胱尿からは、それぞれ〇・〇〇一八‰及び〇・〇七二‰という微量のアルコールしか検出されていないのである。これらの事実が、本件犯行の日時を一月一五日午後一〇時ころ以前と認定することと矛盾するものであるかどうかは、法医学専門家の鑑定に待たなければにわかに断定し難いところではあるが、少なくとも、それが犯行時刻を同日午後一〇時ころ以前と認定することに疑問を提起する資料たりうるものであることは、否定し難いところと思われる。そうすると、前記解剖鑑定書の記載に照らして明らかなこれらの事実の存在にもかかわらず、専門家の鑑定によることなくして犯行時刻を同日午後一〇時ころ以前と断定することは、早計のそしりを免れないのであつて、結局、本件一審及び差戻前控訴審において取り調べられた証拠のみによつて被告人のアリバイの主張を排斥することは、許されないといわなければならない。

以上のとおり指摘している。

(四) 当裁判所の事実調

前記最高裁判所の指摘により当裁判所は、城哲男作成の解剖鑑定書に基づき利則の胃内容物の消化並びに利則の血中及び尿中に含まれるアルコールの量から、あるいは利則が左手にはめていた本件腕時計から、犯行時刻の特定につき次のような事実の取調をなした。

(1) 利則の胃内容物の消化の程度、並びに利則の血中及び尿中に含まれるアルコールの量からの犯行時刻の特定

ア 当審鑑定の前提となる事実

原審で取り調べた教授城哲男作成昭和四四年二月六日付解剖鑑定書によれば、利則の胃内容物は、米飯、椎茸、おろし大根、菜つ葉、落花生等、一七〇ミリリットルの食物残渣を認め、消化の程度はかなり進んでいる、粘膜に異常なし、酒精定量検査により、同人の死体心臓血からは〇・〇〇一八‰(パーミル、一〇〇〇分の一の意味であり、血液一gについてのアルコールmg値である)、死体膀胱尿からは〇・〇七二‰の酒精が検出された、との所見があり、また、久留ウメの前記司法警察員及び検察官に対する各供述調書によれば、利則は昭和四四年一月一五日午後六時四五分ごろ、久留ウメ方を訪れ、同七時から八時ごろまでテレビを見て、その間、午後七時二〇分ころには七勺入りコップに焼酎七、湯三の割合でおろし大根を添えた焼魚(あじ)をさかなに飲み始めており、その後、同七時三〇分ころには、更にさかなとして厚さ五ミリ位の味付けたこ一五切位が添えられ、利則は、同七時五五分ころ右各さかなを食べ終え、また、右焼酎を飲み終つたというものである。そこで、当裁判所は、左記のような①ないし③の鑑定事項を定め、岡山大学医学部法医学教室教授何川凉に鑑定を依頼した。

記(鑑定事項)

① 利則について、城哲男作成の解剖記録(昭和四四年二月六日付鑑定書)記載のアルコール含有量(心臓血〇・〇〇一八‰、膀胱尿〇・〇七二‰)からして、右利則が死亡前にアルコール分二五‰の焼酎一杯(七勺入りコップに焼酎七、湯三の割合にしたもの)を飲酒した場合に、右飲酒後約何時間経過した後に死亡したと考えられるか。

② 利則が昭和四四年一月一五日午後六時前後ころ、米飯、菜つ葉、椎茸の食事をし、同日午後七時ころから同七時五〇分ころまでの間に焼魚(あじ)一尾、味つけたこ一五切、大根おろしをさかなに鑑定事項①の焼酎一杯を飲んだとした場合、右城哲男作成の鑑定書によれば、その死亡時刻は何時ころと認められるか、とくに利則が同日午後一〇時前ころ死亡したと認めることは可能か。

③ 利則が昭和四四年一月一五日午後七時ころから同七時五〇分ころまでの間に食べた焼魚(あじ)、味つけたこ及び大根おろしのうち、焼魚(あじ)及び味つけたこが胃内に残らず、大根おろしのみが残つたものとすれば、その理由。

イ 当審鑑定の経過及び結果

鑑定人何川凉作成の昭和五八年七月二一日付鑑定書(別冊一冊、三五丁裏)、当審第八回公判調書中証人何川凉の供述部分(別冊七冊、九四〇丁)によれば、鑑定人何川凉は次のようにアルコールの濃度測定については人体による飲酒実験を、食物の消化については、人の胃液、人工胃液を用いて、いか、たこ、まぐろ、かつお等の動物性のもの並びに米飯、大根おろし、菜つ葉、椎茸等の植物性のものにつき消化実験を行つたうえ鑑定した。

(ア) 飲酒実験

a 鑑定事項と同じ条件設定のため、第一回実験では、岡山大学職員六人(体重七〇kg一人、六七kg二人、六六kg一人、六三kg一人、四六kg一人)を被検者とし、午前一一時に米飯及び野菜を主としたおかずで食事をさせ(利則の食事内容と全く同一ではないが、特別に脂つこい食事をとらせていないので、アルコールの吸収についての差違はない。)、正午から午後零時五〇分の間に、焼酎白波(アルコール二五%)を使用し、焼酎七、湯三の割合にしたものを七勺コップ一杯飲ませ、その間、さかなとして味つけたこ一五切及び大根おろしを適量与えた。飲酒に要した時間は各人により相違したが一五分から三〇分であつた。午後三時(飲酒後約二時間半後)及び四時(飲酒後約三時間半後)に採血、採尿してアルコールを定量したところ、二時間半後では血液濃度は〇・〇一から〇・〇六‰が五人、体重四六kgの一人だけが〇・一‰、尿中では、血中濃度の高い右四六kgの一人だけが〇・一二‰で、他の五人は〇・〇一から〇・〇七‰であり、三時間半後では、血液濃度は三人で〇・〇〇一‰が二人、右四六kgの一人が〇・〇二‰であつたこと。第二回実験では、同じく大学職員八人(体重六七kg二人、六六kg一人、六三kg一人、六二kg一人、六〇kg一人、四六kg二人)を被検者とし(被検者のうち五人は前回と同一人、三人が新たな者)、同様の実験を行つたが、食事は正午とし、午後一時に飲酒開始させ、おかずは特に与えなかつた。各人の飲酒時間が少し異なり、一〇分から二〇分だつたので採血、採尿を厳密に飲み終つて二時間後、二時間半後とした。その結果、二時間後の血中濃度は〇・〇一ないし〇・〇七‰が七人、一人だけが〇・一五‰を示し、全体としてみると第一回実験の二時間半より〇・〇一‰高くなつており、このときの尿濃度は〇・〇三ないし〇・一八‰であり、二時間半後の血中濃度は〇・〇一ないし〇・〇三‰が五人、一人は零、一人が〇・一一‰であつて、第一回実験の二時間半後の成績と大体同様な成績であつたこと、血中アルコール濃度はアルコールが体内の軟部組織に一様に分布することから飲酒者の体重に関係するものであるが、第二回実験における体重四六kgの二人は二時間後の血中濃度は〇・〇五‰と〇・〇七‰、二時間半後では二人とも〇・〇一‰であり、また、被検者の一人を除けば他の七人はすべて飲酒後三時間では零に近くなると考えられること、

b アルコールの濃度測定方法には色々な方法があり、本件何川鑑定では、最少アルコール濃度が〇・〇〇一‰まで正確に測定できる今日最も信頼でき、かつ、完成した方法であるガスクロマトグラフィー法が採用されたが、教授城哲男の解剖鑑定書に表われている酵素法(同鑑定人は同方法により測定している)は、アルコール脱水素酵素をアルコールに反応させ、変化の度合いからアルコール濃度を算出するというものであるところ、試薬や実験条件や手技により誤差を生じ易く、かつ数字的に算出されるものであるから、実際にはアルコールがなくても微小な数字がでる可能性があり、理論的には死体血では〇・一‰以下は不正確であり、尿では〇・〇二‰以下が不正確とされ、更に測定手技上の誤差として三・一%が見込まれるものであること、そこで、城教授の利則の解剖鑑定書に記載されている心臓血アルコール濃度が〇・〇〇一八‰、尿濃度が〇・〇七二‰という数字は、血液にはアルコールがなく、尿にはごく微量のアルコールがあつたとみてよいこと、また、利則は昭和四四年一月一五日夜死亡し、解剖が行われ心臓血が採取されたのは同年一月一九日の夕方で死後約四日間を経過していることから、血中アルコール濃度の死後変化が問題とされなければならないが、一般に、死体からアルコールが検出されたからと言つて直ちに死亡前に飲酒したと判定することはできない、それは、アルコールが死後産生される場合があるからである。しかし、血中アルコール濃度の死後における低下は無視できるものである。ところで本件の場合は、一月一五日という冬期であり、その後約四日間低温の室内に死体が放置されてあつたとすれば、アルコールの死後産生は殆んどなかつたと推測され、解剖時の測定結果は死亡時をそのまま示しているとみられ、低下も上昇もなかつたものと考えて差支えないこと、

c 以上の諸事実を前提とすると、鑑定条件通りに焼酎一杯を飲んだ場合、血液からアルコールが消失する時間は、飲み終つてから早い人で約二時間三〇分、多くの人は、約三時間といえること、血中濃度に影響する要因は体重だけではないものの、体重の軽い人は、重い人より濃度が高くなる傾向があるところ、本件の被害者利則の体重は不明であるが、身長一四七センチ、栄養は中等度という記載(前記解剖鑑定書)からすれば、体重は四〇ないし五〇キログラム位とみられ、とすれば、血中からアルコールが消失したのは、早くても二時間半を要したのではないかと考えられること、血中アルコールの消失が遅れることは、肝疾患の人などでみられるが、異常に早いということはないものであり、そこで、鑑定事項①については、飲酒後二時間三〇分以後に死亡した可能性が強いと考えられる。鑑定事項②については、城哲男教授の前記解剖鑑定書の血液及び尿のアルコール濃度からすれば、午後一〇時以後の死亡である可能性が強い。

(イ) 胃内容物の消化実験

a 胃内容物の消化については、人の胃液、人工胃液を用いて、いか、たこ、まぐろ、かつお、米飯、大根おろし、菜つ葉、椎茸等の消化実験が行われたのであるが、右各試料の組み合わせを替え右各胃液を実験中追加しながら、あるいは胃液のPH(ペーハー、水素指数)を測りながらなされ、また、人体における死後変化を考慮し、第六回実験で五時間経過した時点で胃液をとり出し、新しいたこ及びたこのイボをこれに加え、室温に放置し、あるいは、味つけたこ八片を人工胃液五〇mlに入れ、摂氏三七度湯浴中で振とうさせ、二時間の間に二〇〇mlの人工胃液を少量ずつ追加する、次に新しいたこを新しい人工胃液に加えたもの、三〇分経過後たこの数片をとり出し、同時に胃液も一部とり出してそれを合わせたもの、同様に一時間経過後及び二時間経過後にも数片のたこを取り出し、その時の人工胃液を一部とつて混合し、その後は室温に放置して一日後及び二日後に観察するという実験を行つたこと、

b 右実験から明らかになつたことは、椎茸、菜つ葉は消化されにくく、五時間でも原形を保つこと、大根おろしも消化されにくく、一般の野菜と同様で、意外に長時間識別可能なこと、焼魚(あじ)は約一時間でわからなくなつたこと、味つけたこは、イボが消化されにくく、三時間ないし四時間でイボもわかりにくくなつたこと、口(歯)で適当にかんだものを試料にすると、胃液が試料の内部に作用し易く、たこの肉は約二時間でわかりにくくなり、イボは三時間ないし四時間でわかりにくくなつたこと、死後においても胃内において消化がかなり進行しうることなどである。

c 以上、右a、bで述べたことから、鑑定事項③については、焼魚(あじ)及び、味つけたこは、大根おろしに比べて消化が早く、死後においても胃内である程度消化が進行する。大根おろしは胃内にある限り注意してみれば、長時間識別できる。

以上のとおり鑑定している。

(2) 本件腕時計による犯行時刻の特定

前記のとおり原審取調の警察技師矢野勇男、警察官宮山敬博連名作成の昭和四四年二月一四日付鑑定書(一〇冊二九二七丁裏)では、本件腕時計に見られる傷は金属体の打撃による成傷と考えられ、その停止時刻は、同年一月一五日午後一一時四五分ころと推定し、破壊された後は動いていないと認める旨鑑定し、また、第一次上迫鑑定(一〇冊二九〇九丁)では、本件腕時計には、①受ねじのゆるみ②テンプの振り切り③日の裏車のカナの外れ④二番車(分針車)の歯車外れ⑤ぜんまい香箱車のふた外れ⑥香箱真のぜんまい内端への連結不良⑦ガンギ保油装置ばねの飛び⑧ガンギ下受石の外れ⑨ガンギ下穴石の割れ、以上内部構造上九か所の故障があるが、右故障は衝撃以外には考えられず、そして、右故障箇所は、いずれも動くための主要部分であるから、これらの故障が生じた後機械としての動きは考えられない、その停止時刻は昭和四四年一月一五日午後一一時前後である。しかし、日車(カレンダー日板)に衝撃を受けた瞬間にずれが出なかつたとは言い切れない、日の裏車のカナ外れの故障があるので衝撃後に日送車の爪位置がずれた可能性がある、右二点を考慮すると同日午後八時ごろから午後一一時ごろまでの間に停止したと考えられる旨鑑定していたものである。そこで、当裁判所は、本件腕時計の故障を生ぜしめたとみられる衝撃により、本件腕時計の日車が動いたかどうかにつき事実の取調をなしたところ、鑑定人牛山堯雄(本件腕時計の設計に携わつた株式会社諏訪精工舎社員)作成の昭和五八年五月二七日付鑑定書(別冊一冊六丁、以下「第一次牛山鑑定」という)では、本件腕時計に加えられた衝撃によりその日車が動く可能性はまずないと考える旨鑑定し、鑑定人遠山正俊(千葉工業大学精密機械工学科教授)作成の昭和五九年三月二六日付鑑定書(同冊三六丁、以下「遠山鑑定書」という。)においても同様に、日車が動く可能性は、極めて少ない旨鑑定し、当裁判所の証人牛山堯雄に対する昭和五八年一〇月一四日取調の尋問調書(別冊六冊七三二丁)当審第一一回公判調書中証人遠山正俊の供述部分(別冊八冊一四〇二丁)においてはそれぞれ右各鑑定書と同趣旨の供述をなし、これに対し検察官の鑑定嘱託に基づく上迫和典作成の昭和六〇年三月一日付鑑定書(別冊三冊四三七丁裏、以下「第二次上迫鑑定」という。)においては、改めて一〇〇個位の時計を使用して実験した結果、衝撃により日車が動く可能性がある旨鑑定し、当審証人上迫和典の当公判廷における供述(第二〇回公判、別冊一一冊二一七一丁、第二二回公判、同冊二三二六丁、第二四回公判、別冊一三冊二八五五丁)でも同趣旨の供述をなし、更に、鑑定人牛山堯雄作成の昭和六〇年六月七日付鑑定書(別冊三冊五五二丁、以下「第二次牛山鑑定」という。)では、第二次上迫鑑定の実験結果を前提にして、上迫氏実験においては、被害者着装の時計とほぼ同じ故障が組み合わさつて生じていないので、上迫氏実験品S11、S34(実験により日車が動いた時計)の実験結果から被害者着装の時計も同様に動いたであろうと推測することは難かしい旨鑑定し、当裁判所の証人遠山正俊、同牛山堯雄に対する昭和六〇年六月一八日取調の各尋問調書(別冊一二冊二五九九丁、二五〇五丁)及び当審第二四回公判廷における証人遠山正俊の供述(別冊一三冊二七六二丁)においても、第二次上迫鑑定に対し第二次牛山鑑定と同趣旨の供述をなしているものである。

ア 第一次牛山鑑定について

第一次牛山鑑定書(別冊一冊六丁)及び当裁判所の証人牛山堯雄に対する昭和五八年一〇月一四日取調の尋問調書(別冊六冊七三二丁表)によれば、

(ア) 竜頭により巻かれたぜんまいにより日付が刻まれた日板(日車)が動く機構は次のようになつていること、すなわち竜頭を巻くと香箱車内のぜんまいが巻かれて力が貯わえられ、その力が同車の外周に設けられた歯車により二番車(二番カナと二番歯車からなる)に伝わること(その伝わり方は香箱車の右歯車とかみ合つている二番カナに伝わり、二番カナに取り付けられた二番歯車を回すというものである。)、ぜんまいの力はここから二分され、時の刻みを一定に保つ働きをする三番車、四番車(秒針が取りつけてある。)、ガンギ車、アンクル、テンプに順に伝わる系列と、二番車に摩擦力で繋合され取り付けられた筒カナ(分針が取り付けられている。二番車と筒カナは通常は一緒に回転するものの、竜頭の方から分針を回すときには二番車は回転せずに筒カナだけスリップし摩擦の力に勝ち滑つて筒カナだけ回る仕組になつている。)、日の裏車(日の裏カナ、日の裏歯車からなり、筒カナからの力は日の裏歯車に伝わり、そして日の裏カナと力が伝わる。)、筒車(上歯車、下歯車からなり、時針がとりつけられ、日の裏カナと筒車の上歯車がかみ合つている。)、日送り車(筒車の下歯車とかみ合つている。)、日送り車に固定された爪で日車の突起(日車自体に刻まれた歯の突起部分)を回わし日車を動かすという力の系列に分離されていること(同尋問調書一八九項別冊六冊、当審第二〇回公判廷における証人上迫和典の供述六二項別冊一一冊)、筒カナが一時間に一回転すれば、筒車は一二時間で一回転し、筒車が一日二回転するとき日送り車は、一日一回転する仕組となつていること(同尋問調書一八六項、一八九項)、日付が一日ずつ変わる仕組は日送り車に固定された日送り爪が日車の突起を一歯ずつ送ることによりなされ、日送り爪が日車の突起と接触し、その突起を動かし始めてから終るまでの状態を「日送り準備状態にある」ということ、右のような日送り準備状態にないとき、日車はその歯の内歯部分が日躍制レバーにより押しつけられ(同レバーに取り付けられた同レバーばねの働きによる)、日車は一定の位置を保つようになつていること、日送り爪が日送り準備状態に入ると、日車の突起が日躍制レバー(「」型をしている)の斜辺を押し始め(同レバーばねが縮み、同レバーが押えられる)、同レバーの突起を越えた瞬間、同レバーは、同レバーばねの働きにより、日車の歯の内歯内に収まり(この時点で日送り準備状態は終る)、次の日付を一定の位置に保つようになること、

(イ) 本件腕時計に於いて、設計計算上日送り爪が日車の歯の突起と接触し始める時刻は、午後一〇時七分であり、それが終る時刻は一二時であるが、組立上のばらつきを考えるとそれぞれ二〇分位の誤差を考えるべきであること(前記牛山堯雄尋問調書二三二項別冊六冊)、本件腕時計は一五日から一六日への日送り準備状態の途中で、後記の衝撃により停止しているが、その時刻は、文字板の窓穴部に対する日車の動いた角度からみて、午後一一時一二分であるが、日車の日付が変る時間と時針、分針を取り付ける際の組立上の誤差が通常プラス、マイナス二〇分以内と考えられるので、右一一時一二分を中心に前後二〇分の時間帯であるとみられること(第一次牛山鑑定書六(三)別冊一冊、同尋問調書七一項、七二項別冊六冊)、

(ウ) 本件腕時計には、三時から八時方向に打痕跡が見られ、文字板上の日付の出る窓の下側部分に相当な力が加わり、文字板の下にある日車を変形させている(日付16の文字の上に痕跡が見られる)文字板、日車がへこんでしまつて、日車を回そうとしても隙間が詰まつていて動かない状態にあること(前記牛山堯雄尋問調書六〇項別冊六冊)、本件腕時計に加えられた衝撃は通常何かにぶつかる、あるいは落したというようなものでなく、ガラス縁の材料はステンレス・スチールからできているのにガラス縁に傷跡があるから、右ステンレス等と同等か、それとも硬いもので叩かれたとみることができ、しかもその回数は一回、多少斜め方向から加えられ、この衝撃により、第一次上迫鑑定指摘の九か所の故障が生じたものとみられ、この故障が生じた後は、日車の変形をも合わせ考えると、日車のみが単独で回転した可能性はまずないこと、

(エ) 第一次上迫鑑定では「日車が衝撃を受けた瞬間にずれが出なかつたとは言い切れない」(一〇冊二九一三丁)とされているが、本件腕時計に加えられた打撃は、ほぼ文字板の中心から六時方向よりに文字板に垂直より多少斜めから加えられたと考えられる(前記牛山堯雄尋問調書三七項、三八項)もので、加えられた力の角度、方向が異なること、日送り爪、日躍制レバーは、日送り準備状態にあり、時計の設計構造上、日送り爪と関係なく日車自体が動くとすると、日送り爪は日送り準備状態とは異なつた状況になければならないこと(同尋問調書六四項)、右のことから、日車が衝撃を受けた瞬間ずれた可能性はないと述べ、また、第一次上迫鑑定の「日の裏車のカナ外れの故障があるので、衝撃後に日送り車の爪位置が動いた可能性がある。」(一〇冊二九一三丁)との点については、本件腕時計は、衝撃の瞬間、前記のような文字板、日車の変形により動かなくなつたとみるのが相当(同尋問調書五六項)であること、以上のとおり鑑定している。

イ 遠山鑑定について

当審鑑定人遠山正俊作成の昭和五九年三月二六日付鑑定書(別冊一冊三六丁、以下「遠山鑑定書」という。)、当審第一一回公判調書中証人遠山正俊の供述部分(別冊八冊一四〇二丁)によれば、同鑑定人に対し当裁判所が依頼した鑑定事項は①本件当時、本件腕時計に加えられた外圧により、同時計の日車が動いた(例えば、午後九時ごろの状態の日車が、右外圧により瞬時に午後一一時ごろの状態を指すに至つた)可能性の有無、②鑑定人牛山堯雄の右①の事項に対する鑑定(同鑑定人は、第一次牛山鑑定書「六」鑑定結果(一)において日車は動く可能性はないと鑑定している。)の当否について、というもので、これに対する鑑定の結果は次のとおりである。

(ア) 日車の歯と日送り爪及び日躍制レバーとの相互関係を考慮せずにただ日車のみが外圧により動いたかどうかについていえば、本件の衝撃は力の大きさは大きいが、力の方向が文字板とほぼ垂直であるということなどから、日車が動く可能性はあるが、その確率は小さいと考えられる(遠山鑑定書五・四項別冊一冊、右遠山証人供述部分二〇五項ないし二〇七項別冊八冊)、また、本件腕時計の日送り爪、日躍制レバーは日送り準備状態にあるところ、この日送り準備状態にない時刻(日車の歯の軌道に日送り爪が入り接触し始めるまでの午後八時ごろから同一〇時七分までの間)に、仮りに日車自体が動いたとしても、日躍制レバーを固定しようと働いている日躍制ばねにより日躍制レバー自体が押し戻され元の位置に戻つてしまう。従つて動いた可能性はない(前記遠山証人供述部分二二九ないし二三四項別冊八冊)。

(イ) しかし、本件の場合日車が動いたかどうかは、日送り車(日送り爪が固定されている)の動きと総合して判断する必要がある(同鑑定書五・四項)ので考察を加えると、

a 本件腕時計に加えられた衝撃力はガラス、文字板を破壊、損傷、変形させ、更に日の裏カナに達して日の裏車から脱落させている、従つて日の裏カナに達した衝撃が日の裏カナを脱落させるとともに、筒車ひいては、日送り車を動かすことが考えられるが、日送り車を動かし、日送り爪及び日躍制レバーと日車の歯との相互関係が本件腕時計のように日送り準備状態になるには、衝撃力が日の裏カナを回転させる成分を有し、かつその回転方向が日送り車を正回転(日付を進める方向)させる方向でなければならないのに、本件腕時計に加えられた衝撃は、文字板にほぼ垂直であり、右条件に適合するような力の可能性は極めて小さい。また、日送り車は筒車とかみ合い、筒車は日の裏カナとかみ合つているが、日の裏カナからみると日送り車は七・五分の一の減速になつていることからみて、右のような伝達トルクにより日送り車が動く可能性は極めて小さいといえる(同鑑定書六・一項、前記遠山証人供述部分二三項、別冊八冊)

b 本件腕時計が衝撃を受け、時計全体が静止空間に対し回転運動し、この運動による角加速度と日車の回転軸に関する慣性能率(回転運動における慣性)により定まるトルクなどが日車を動かす慣性トルクによる場合は、本件腕時計では日の裏カナが脱落していることから、慣性トルクが生じた時点と日の裏カナの前後関係を区別して考えるべきであるが、①日の裏カナが脱落する以前に右慣性トルクが生じたときは、日の裏車と筒カナが噛み合つており、筒カナは二番車の軸に摩擦繋合され、二番車は機構上外部の力では回らないようになつているから、抵抗トルクとして筒カナを二番車の軸に対し、スリップさせる大きなトルクが加わり、かつ筒カナは日送り車からみると増速になつているので、抵抗トルクは極めて大きくなり、これに打ち勝つて日送り車を回転させるに足りる慣性トルクの生じる可能性は極めて少ない、②また、衝撃力により日の裏カナが脱落中及び脱落後に時計全体が静止空間に対し激しく回転し慣性トルクが生じたとき日の裏カナが脱落後は日送り車は筒車との噛み合いのみになり、日送り車は慣性トルクにより動く可能性があるものの、衝撃力は、機構上(日送り車は筒車、日の裏車、筒カナ等の歯車と平面的に配列され噛み合つている。)及び衝撃力の方向から考えて、日の裏カナと日車にほぼ同時に作用したと考えられるから、この時は日車は変形し動けない状態にあり、従つて、慣性トルクにより日送り車がすでに動けない状態にある日車を動かし日送り爪と日車の歯との関係が日送り準備状態になる可能性は極めて少なく、これらより、慣性トルクにより日送り車が動く可能性は極めて少ないと考えられる(同鑑定書六・二項及び五・一(二)項別冊一冊、前記遠山証人供述部分二七、二八、三一、三二項別冊)

(ウ) 以上により、本件腕時計の衝撃終了後の状態である、日車の歯と日送り爪、日躍制レバーの相互関係(本件腕時計が日送り準備状態にあること)を考慮して考察すると、①衝撃により日車自体が単独に動く確率は小さく②また、衝撃により日送車従つて日送り爪が動く可能性は極めて小さく③日送り爪が衝撃の加わる直前に日送り準備状態になり(その爪位置は、前記のとおり、午後一一時一二分プラス、マイナス二〇分の時間帯にある。)、衝撃によりそのままの位置で停まつたと考えられる(同鑑定書七項別冊一冊)。

(エ) それゆえに鑑定人牛山堯雄のその鑑定事項に対する鑑定(第一次鑑定)は概ね妥当である(遠山鑑定書八項)。

以上のとおり鑑定している。

ウ 第二次上迫鑑定について

第二次上迫鑑定書(別冊三冊四三七丁裏)及び当審第二〇回、二二回、二四回公判廷における証人上迫和典の供述(別冊一一、一三冊)等によれば、

(ア) 時計師上迫和典は検察官の鑑定嘱託に基づき、実験を行い昭和六〇年三月一日付で鑑定書を作成し、同月五日検察官より証拠請求がなされ、当審第二一回公判廷(昭和六〇年五月一六日)において取調をなした。その鑑定事項は、セイコーカレンダー(日付のみ)付耐震装置付腕時計に対して次の条件の下で、通常の人間が長さ約三〇センチの鉄棒の各棒で力一杯の打撃を加えた場合、日車がその衝撃により動く可能性があるか①打撃を加える方向は、おおむね、右時計の三時と八時の箇所に同時に外傷が加えられる方向とする。②腕時計は人間の左腕にはめられた状態にあつたものとする、というものである。

(イ) 右鑑定事項に対し、上迫和典は次のような実験を行つた(別冊三冊四三三丁裏ないし四三六丁裏)

a セイコースポーツマンカレンダー(日付のみ)付一七石耐震装置付腕時計三四個(本件腕時計と同一機種で時計機構、カレンダー動作の仕組みも同じであり、部品も共通の物)、セイコーチャンピオンカレンダー(日付のみ)付一七石耐震装置付腕時計一三個(スポーツマンカレンダー付腕時計に時計機構及びカレンダー機構が似ているので、実験方法・条件の改善の目的で使用された物)、セイコークラウンカレンダーなし二一石耐震装置付腕時計五〇個(実験装置の工夫、改善の予備実験に使用した物)、その他国産時計メーカーのカレンダー付腕時計を用いた。

b 人間が長さ約三〇センチの鉄製の角棒で打撃を加えるときの運動量を計算し、その運動量に見合うように、外径一九ミリ、重さ二五〇グラムないし四〇〇グラムの丸軟鋼棒のおもりを、内径二〇ミリの鉛直管の中を高さ六・四メートルと一五・五メートルのところから時計に自由落下させる装置を作り、本件腕時計のガラス縁の三時、八時附近に見られた外傷は鉄製の棒の角があたつてできた傷であろうと想定し、これと同様の外傷が実験に用いる時計に生ずるか否かを見るため鉄のエッジを作り、これを各実験時計の三時と八時を結ぶ線上の風防ガラス面にあてて、前記おもりによる衝撃を加える、また、本件腕時計が人の腕にはめられていた状態にあつたことから、その状態に近似させるために木製の台(各実験時計がはめこまれる装置が施してある)の裏側にスポンジを固めて貼りつけ(当審第二二回公判廷における証人上迫和典の供述八四、八五項、別冊一一冊)同台の足としてゴルフボールをその下にゴムマットを使用し、更に、本件腕時計にみられたテンプの振り切り受ねじのゆるみ等から時計面に平行な力も働いたことを考慮し、前記木製の台を一〇度傾斜させるという方法で行つた。

(ウ) 右のような実験の結果、セイコースポーツマンカレンダー付(日付のみ)一七石耐震装置付腕時計三四個のうち左記aないしeの八個に日付窓の日付数字に変化が認められた(別冊三冊四三一丁ないし四三三丁)。

a S11(実験時計の実験番号を意味する、以下同じ。)については、午後一一時に設定していた時計の分針が午後一一時四二分位まで動いた。三時と八時を結ぶ線上のガラス縁、文字板にくぼみ傷が認められ、日付窓、日送爪窓により日車(日板)が反時計方向に動いている。文字板の三時附近と八時附近が内側へ曲がり、日板押えが一七日附近でたわみ、日板との隙間が詰まつている。機械は止まつており、とくに二番歯車と二番カナのゆるみがみられた。

b S34については、一五日午後八時に設定していた時計の秒針、分針ははずれ、時針は一〇時をやや過ぎた位置にあり、日付窓には実験前に設定した一五日に代わり一六日が出ていた。風防ガラスは完全に割れ、ガラス縁ははずれてゆがみ、文字板の打痕は三時と八時を結ぶ線に沿い、ガラス縁の二箇所の傷もその線に沿つている。日送爪が日車(日板)内歯に触れている。文字板は八時と三時半附近が内側に曲がり、日板押えは日板の一八日附近がへこんでいる。機械内部の故障はS11と同様とくに二番歯車と二番カナとの間のゆるみがみられた。

c S7については、午後九時に設定していた時計の分針が午後九時九分に動いている。ガラス縁の四時と七時附近に打痕が認められ、文字板は五時と七時の棒文字の頭を結ぶ線に沿つてへこみ、日付窓の日付数字は、わずかにすすみ変化がみられ、日送爪窓にも日車(日板)がわずかに動いた様子が見られる。

d S6については午後九時三〇分に設定していた時計の分針が午後九時三四分に動いている。ガラス縁は二時と八時半附近に打痕が認められ、この傷を結ぶ文字板上の二時寄りの方に約〇・五ミリの深いくぼみ傷が認められ、日付窓の日付数字は、逆に動いた状況を示し、日送爪窓には、日車(日板)の変化は認められない。

e S12、S14、S16、S17についてはいずれも一五日と設定された日付窓の日付数字にわずかな変化があり、日送り爪により日車(日板)がわずかに動かされている。

(エ) 右実験結果に対し上迫和典は次のように鑑定意見を記載している(同冊四三〇丁裏ないし四三三丁表)。即ち

a S12、S14、S16、S17については、いずれも衝撃により日送車がわずかに動き、日送爪が日車(日板)を押し日付数字のずれとなつて現われた。

b S6については衝撃により文字板が変形したため日付窓がずれ、それが日付数字のずれとして認められる状況となつた。

c S7については、この日車の動きは機構的なものとはかかわりなく、衝撃により加えられた力で日車(日板)が単体で動かされたものと考える。

d S11については、衝撃により二番歯車と二番カナとの間にゆるみが生じ、二番カナ(二番真と一体)は容易に回わるようになつた。香箱車はテンプにより制御されているのだが、右のようにゆるんだことにより二番歯車が二番カナにテンプの制御を伝えなくなつたため、香箱車のもつ回転力が一瞬にして解放され、二番カナつまりは二番真を急速に回わすことになつた。そして、この力が二番真にはめこまれている(まさつ繋合)筒カナを経て日送車を回転させ、日送り爪が日車(日板)を動かした。しかし、香箱車内のぜんまいにはまだ余裕が残つていた。このことは、香箱車の回転力が出しつくされる以前に、衝撃による文字板の変形により押さえつけられた日車がその動きを止められ、さらに日送車が回転をとめられた。即ち、故障により日送車が急速に回転して日車を動かし、そののち、文字板の変形が日車の動きを止めたと考えられる。

e S34については、日送爪の状況、日躍制レバーが日車の内歯にきちんと納まつていること、および、時計の示す位置から判断すると、実験後の時計は一六日午後一〇時すぎ日送り開始直前の状態と推測される。ぜんまいの力は全部出しつくされており、香箱車はふたはずれの状況にあり、衝撃の瞬間ぜんまいが一気にはぐれ、文字板に平行な力が発生したために日車(日板)が単独で動き、一六日まで一日ぶんはとびだしたと考えられる。実験後の状態は、設定時刻から一日と約二時間動いたことを示しているが一日ぶんは日とびであり、残りの約二時間ぶんがS11と同じ同様の仕組みにより日車が動いたと推定される。

(オ) 以上の諸資料を前提として検察官の前記鑑定嘱託事項に対しては、セイコーカレンダー(日付のみ)付耐震装置付腕時計に対して、通常の人間が長さ約三〇センチの鉄製の角棒で力一杯の打撃を加えた場合、日車(日板)はその衝撃によつて動く可能性がある(別冊三冊四三六丁裏)と結論づけ、その理由のまとめとして、衝撃により日送車が単純に動く場合、あるいは日車自体の日とびの場合以外に次のような仕組みで日車が動く可能性がある。①打撃の瞬間、二番歯車と二番カナとの間にゆるみが生じる。そのため二番歯車が二番カナにテンプからの制御を伝えなくなり香箱車が急速に回転し、その回転力が筒カナ、日の裏車、筒車、日送車をへて日送爪を動かし、日車を押し動かし始める。②一方、日車は文字板の変形により押さえつけられてその動きを止められ、さらに日送車の回転を止める。③衝撃が伝わる一瞬のうちに、①のことが起こり、そののち②のことが起こつたと説明できる(同冊四三〇丁)。

(カ) そして衝撃により本件腕時計の日車は動いた可能性はないとの第一次牛山鑑定及び遠山鑑定に対し、右両鑑定は、二番カナと二番歯車がゆるみ、二番歯車、三番車、四番車、ガンギ車、アンクル、テンプという系列の力が伝わらなくなり、つまり、テンプから逆に二番歯車、二番カナへの力の制御がなくなり、香箱車のぜんまいの力により二番カナ(二番真)が急速に回転し、この力が筒カナ、日の裏車、筒車、日送車を経て日車を動かしたこと、すなわち右ぜんまいの力による日車の回転を考慮していない印象を受ける旨述べ(当審第二〇回公判廷における証人上迫和典の供述七一項、七八項、一九二項、一九四項、別冊一一冊)、二番カナのカナ外れの原因は打撃によるものであるが、二番カナのカナ外れの時間と文字板の変形、そして日車の変形とは時間的なずれがある(同供述三一〇項)、文字板、日車を曲げてしまう前に時計の側が揺れ、それでカナ外れする、この力の伝わり方が速い(同供述三一二頁)。

以上のとおり説明している。

エ 第二次牛山鑑定等について

第二次牛山鑑定書(別冊三冊五五二丁)、当裁判所の証人牛山堯雄、同遠山正俊に対する昭和六〇年六月一八日取調の各尋問調書(別冊一二冊二五〇五丁、二五九九丁)、当審第二四回公判廷における証人遠山正俊の供述(別冊一三冊二七六二丁)等によれば、

(ア) 右ウで述べたように、第二次上迫鑑定では、実験の結果、衝撃により本件腕時計のような腕時計の日車が動く可能性があるとされ、とくに、二番カナと二番歯車の間にゆるみが生じた場合には、香箱車内のぜんまいの力により日車を動かすことが考えられ、この点が第一次牛山鑑定及び遠山鑑定では、考慮されていない旨述べられたことから、当裁判所は、鑑定事項を「本件腕時計は、第二次上迫鑑定中、S11、S34の時計と同様に(二番カナと二番歯車のゆるみにより、香箱車内のぜんまいの力で二番カナが急速に回転し日車を回すことにより)動いた可能性があるか、あるとすればその程度はどの程度か。」として、再度鑑定人牛山堯雄に鑑定を依頼し、また同人及び遠山正俊の供述を求めた。

(イ) 右鑑定事項に対し、第二次牛山鑑定書(別冊三冊五五二丁)は、①本件腕時計とS11、S34の各腕時計では、構造上の、とくに日車、裏板、地板の形状が異なつていて、本件腕時計の日車は直接地板に支えられているが、S11、S34の日車は直接地板に接触しておらず、地板に支えられていない。②本件腕時計とS11、S34の時計との間には打撃による故障が異なり、とくに、S11、S34の時計の各文字板の変形は、日窓部の下まで達しておらず、日車はいずれも変形していない(本件腕時計の変形は大きい)こと、また、右両時計にはいずれも日の裏車の日の裏カナと歯車のゆるみが生じていない(本件腕時計ではゆるみが生じている)こと。

右のようなことから、時計の設計、構造、打撃の生じ方、破損部品の発生の仕方に微妙な相違があり、第二次上迫鑑定の実験結果から、本件腕時計が衝撃により動いたであろうと推測することは難かしい旨鑑定した。

(ウ) 当審証人牛山堯雄、同遠山正俊に対する昭和六〇年六月一八日取調の各尋問調書(別冊一二冊二五〇五丁、二五九九丁)、並びに証人遠山正俊の当審第二四回公判廷における供述(別冊一三冊二七六二丁)によれば、

a 本件腕時計に日の裏車の日の裏カナと日の裏歯車のゆるみ(はずれ)が存することから、第二次上迫鑑定のように二番車の二番カナと二番歯車のゆるみによる香箱車のぜんまいの急速に回転する力が、二番カナ(二番真と一体)から筒カナ、日の裏車(日の裏歯車と日の裏カナ)そして筒車、日送車ひいては、日車へと、日の裏歯車と日の裏カナのゆるみ以前にその力が伝達されるか否かが重要である(牛山堯雄尋問調書二一ないし二五項、遠山正俊尋問調書五〇項)が、第二次上迫鑑定のS11、S34の各時計には、二番歯車と二番カナのゆるみはあつても日の裏カナと日の裏歯車のゆるみはない(牛山尋問調書六三、六四項)から、上迫氏の実験結果によつて本件腕時計の日車(日板)が衝撃により動いたと推測することは難かしい。

b また、二番車及び日の裏車の衝撃に対するゆるみの程度は、二番車の固定の仕方は「からくり」という方法を用い、ゆるみにくい固定方法を採つているのに、日の裏車は単純にカナに歯車を打ち込んでいるだけで二番車よりもゆるみやすい(牛山堯雄尋問調書六〇項、別冊一二冊)、日の裏カナは、機構上、回転力がかからなければはずれないということはなく(遠山正俊尋問調書五二項、別冊一二冊)、二番カナと日の裏カナの抜けやすさの機構上の差は、二番歯車と二番カナは回せばゆるむ関係にあるのに、日の裏歯車と日の裏カナは引き抜く力だけで抜けるという関係にあり、同じ単位に換算してみると、日の裏カナは二番カナの一七分の一の力(遠山尋問調書六四項、六七項ないし六九項)もしくは一〇分の一の力(遠山正俊の公判廷供述二項、別冊一三冊)で抜けることが推定できるものである。

c 二番車及び日の裏車のゆるみを生じさせた衝撃力の伝わり方は、ガラス縁、それから地板等に伝わる側面からの衝撃波動として伝わる場合と、兇器そのものがガラスを打ち文字板を曲げ、それから地板を曲げるような垂直方向の力が考えられるが(遠山正俊尋問調書五九項、別冊一二冊)、二番車と日の裏車のゆるみ具合は、力の方向(垂直の力によるものか、ガラス縁等のケースから中に衝撃波動として伝わるか)の問題ではなく、力の大きさの問題であり(遠山尋問調書七三、七四項)、本件腕時計についていえば、二番車と日の裏車のゆるみは、ほぼ同時か、日の裏車が先で二番車が後といえる(遠山尋問調書七九項)、つまり、右の垂直方向の力による衝撃に対しては、位置的に二番車より日の裏車が上にあり、日の裏車が先に衝撃を受けるものであり、また、ガラス縁からの側面からの衝撃波動による場合は、二番歯車と日の裏車の伝わつてくる衝撃波動に対する水平方向の距離差は本件腕時計では、約三ミリで、この三ミリ間を衝撃波動が通過する時間は約一〇〇万分の一秒位で殆んど同時といえる(遠山尋問調書八三項)。

d 香箱車のぜんまいを一杯に巻いた場合、時針等は四〇時間分位回るのであるが、二番カナの力を二番歯車、三番歯車以降テンプまで伝わらないようにしてぜんまいを一挙に解放すると一〇〇分の数秒で右四〇時間分位のぜんまいの力が出し尽くされる(遠山正俊の公判廷供述一〇項、別冊一三冊)。しかし、空回りする分があり、右のようにして、一挙にぜんまいを解放した場合、時針等は二四時間から二六時間位動くものであり(遠山正俊尋問調書四〇項)、第二次上迫鑑定のS34の時計が一日の日飛びと二時間動いたとする点は、二六時間回転したと考えるのが妥当である(遠山尋問調書三二項、別冊一二冊)。

e 第二次上迫鑑定では、①衝撃により二番カナと二番歯車がゆるみ、ぜんまいが一挙にほぐれてその力が日車を回す一方、②衝撃力により日車が押えられ動かなくなり、その①と②の間の時刻差分だけ日車が回転したとされているのであるが、どの程度その時刻差分だけ動くのかは簡単にいえるものではなく実際に実験してみたものの、例えば午後九時ごろだつた時計の分針の位置が午後一一時ごろまで二時間分も動くとは到底説明できるものではない(遠山正俊の公判廷供述七七項、別冊一三冊)。

f 本件腕時計に加えられた衝撃は、文字板、日車、地板と伝わり、文字板が受けた衝撃によりその日付窓の端面で日車表面の日付文字16の箇所に、傷跡をつくり、さらに日車の裏面が地板にあたつたところにも傷跡がみられるが、右日車上の各傷跡の所在位置は本件腕時計の押収当時の日躍制レバー及び日送爪と日車の位置関係の状況と一致し、少なくとも日車上の日付文字の16の位置に傷がつけられた時以降は、日車は動いた可能性はない、と考える(牛山尋問調書六八項ないし八一項及び添付写真2、3、別冊一二冊、第二次牛山鑑定書五(一)(4)項、別冊三冊、第一次牛山鑑定書図面二及び三、別冊一冊、第一次上迫鑑定書写真四及び六、一〇冊二九一七丁)。

以上のように供述している。

(五) 犯行日は昭和四四年一月一六日でなく同月一五日であることについて

司法警察員作成の昭和四四年一月一八日付捜査報告書(一〇冊二八三二丁によれば、捜査当初には同月一六日利則が実父折尾長吉方を訪れた旨のきき込みがあり、右長吉の妻折尾シヅの司法警察員に対する昭和四四年一月一八日付供述調書(一〇冊、二八七五丁)には、訂正前の記載として、一昨日の一六日利則がきた旨書かれ、また、司法警察員大重五男作成の同年七月一〇日付捜査報告書(別冊三冊四八〇丁)中には、吉原ミチ子が同年一月一六日午後三時ころ中津神社下道路上で被害者キヨ子と会つたと述べた旨の記載部分が存するが、右折尾シヅの調書の記載は、刑訴規則に定める方式に従つて、一昨昨日の一五日に利則が来た旨に訂正されており、右大重五男作成の捜査報告書、司法警察員作成の昭和四四年一月二〇日付実況見分調書(一〇冊二九三四丁)及び当審第五回公判調書中証人浜ノ上仁之助の供述部分(別冊五冊四六九丁)によれば、多人数の捜査員で広く聞込み等を行つても折尾シヅ、吉原ミチ子以外に一月一六日に利則及びキヨ子を見た旨を述べたものはなく、捜査の結果、利則及びキヨ子の行動、足取は一月一五日夜以後不明というほかなく、利則が左腕にはめていた本件腕時計のカレンダー日付が一月一五日を表示していること、キヨ子が妹木原淳子宛に書いて炬燵の上に未発送のまま便せんとともに置いていた手紙の日付が一月一五日となつていたこと、一月一七日に利則方廐舎の成牛と仔牛が綱を噛み切つて庭に出ていたが牛は僅か一晩で飢えのためこのような行動にでるものではないこと、後記のような一月一六日飼料を届けた児玉武義の現認状況及び一月一八日における右飼料と伝票の存在状態等から捜査当局により犯行を一月一五日と特定されていつたこと、加えて本件犯行により停止したと見られる本件腕時計の日付が一五日から一六日に変更しつつある時点で、本件腕時計は停止しており、その時刻は、前記当審における証拠調の結果、殊に第一次牛山鑑定の結果により、一月一五日午後一一時一二分プラス、マイナス二〇分の時間帯とされ、いまだ一六日に至つていないこと、更に、当裁判所受命裁判官の証人児玉武義に対する昭和六〇年三月八日取調の尋問調書及び右大重五男作成の捜査報告書によれば、鹿屋農業協同組合高隈支所の運転手であつた児玉正義が被害者利則方から依頼されていた牛の飼料を同月一六日午前の九時ごろから一〇時ごろまでの間に車で届けに行つたとき、利則方の雨戸は全部しめきり、奥六畳間の障子も立てきつてあつたというものであり、また、児玉が利則方小縁に置いた牛の飼料袋、伝票が同月一八日の実況見分の際、そのままの状態で発見され、利則及びキヨ子が手をふれた形跡もないことなどに徴すると、本件犯行は関係各証拠により昭和四四年一月一六日ではなく、同月一五日夜敢行されたものと認めるのが相当である。

(六)  まとめ

前記のとおり本件犯行は昭和四四年一月一五日夜敢行されたと認められるのであるが、被告人は前記のとおり同日午後一〇時(少し前)ころ郡境付近で長崎留雄とすれちがつたことがうかがわれるうえ、午後一〇時過ぎころには自宅に帰つたといえるものであるので当夜の具体的犯行時刻について検討を進めてみるに

(1)  前記何川鑑定では、人が七勺入りコップに焼酎七、湯三の割合で混ぜたものを一杯飲んだ場合、血液からアルコールが消失する時間は、飲み終つてから早い人で約二時間三〇分、多くの人は約三時間といえる、利則の死体から検出された城哲男教授の解剖鑑定結果を基にすれば、利則の死体心臓血アルコール濃度〇・〇〇一八‰という数字は血液にはアルコールがないとみてよいものであり、利則の体重等からみて、利則が飲み終つてから、死亡するまで早くても二時間半を要したのではないかと考えられると鑑定され、従つて、利則が午後七時半に飲み終つた場合、その死亡推定時刻は午後一〇時、午後七時五〇分に飲み終つた場合にはその死亡推定時刻は午後一〇時二〇分となり、当裁判所の、同人が午後一〇時前ころ死亡したと認めることは、可能かとの鑑定依頼事項に対して何川鑑定は、午後七時ころから午後七時五〇分ころまでの間に鑑定事項通りの飲食をした場合、城哲男の鑑定書にある血液及び尿のアルコール濃度からすれば、午後一〇時以降の死亡である可能性が強い、とされている。

(2)  本件腕時計に加えられた衝撃は、通常落したりして生じるようなものでなく異常な衝撃によるものであり、利則に加えられた本件犯行の際の衝撃によるものと認められるところ、

ア  第一次上迫鑑定では、その停止時刻は一月一五日午後一一時前後と考えられるが、①日車(日板)に衝撃を受けた瞬間にずれが出なかつたとは言い切れない、②日の裏車のカナ外れの故障があるので、衝撃後に日送車の爪位置がずれた可能性があるとして、午後八時ころから午後一二時ころまでの間に停止したと考えられるとの鑑定がなされているものであるが、どのような物理的理由により動く可能性があるのか、何ら説明はなかつたものである。これに対し、第一次牛山鑑定、遠山鑑定では本件腕時計に加えられた力の方向がほぼ垂直方向であり、日車を回す水平方向の力が働いていないから日車が動く確率は小さい、本件腕時計の日送り爪、日躍制レバーが日送り準備状態にあるからこのような場合、仮りに日車が動いたとしても日躍制レバーの働きにより日車は元の位置に押し戻されるので日車が単純に動いた(ままとなる)可能性はないとされ、また、日送り車(日送り爪が固定されている)に働く伝達トルク、慣性トルクの双方より考察してみても、日送り爪が動く可能性は極めて小さいとされ、本件腕時計の上においては、それが加えられた異常な衝撃により停止した時刻は午後一一時一二分を中心に前後二〇分以内の時間帯とされているものである。なるほど、第二次上迫鑑定においては、その実験結果ではS7、S12、S14、S16、S17の各時計に日付数字及び日送り爪がわずかながら動いた形跡が見られ、これらから、衝撃により本件のような腕時計の日車が動く可能性があると結論づけているのである(同鑑定書一四頁別冊三冊四三〇丁裏)。しかし、S7の時計においては午後九時一分位に設定されたのが同九時九分に(同冊四一五丁裏)、S12にあつては日送り爪がわずかに動いていることは認められるものの、分針は午後一〇時三〇分に設定されていたものが、壊れて同一〇時二七分位に逆戻りの状態にあり(同冊四一〇丁裏)、S14の時計にあつては、午後一一時に設定されたのが同一一時五分位に(同冊四〇八丁裏)、S16の時計にあつては午後一〇時に設定されたのが、時針がほんのわずか動いていることは認められるものの分針が壊れていることから何分動いたかは定かでなく(しかし、一〇分以上も動いたとは到底認められない。同冊四〇六丁裏)、S17にあつては午後一一時に設定されていたのが、同一一時一分に(同冊四〇五丁裏)、それぞれ動きが見られる。S7、S12、S14、S16、S17の各時計は右に述べたように一〇分以上の動きのある時計は存在せず、右各番の日送り爪がわずかに動いたという実験結果だけをもつて、本件で問題とされる本件腕時計の時刻が原判示犯行時の午後九時ころ、あるいは郡境で長崎留雄と午後一〇時(少し前)ころすれ違つた時刻以前であつたものが衝撃により午後一一時ころまで一時間ないし二時間動いたことの証左とはなし得ないものであり、右第一次牛山鑑定及び遠山鑑定を覆すに足りない。

イ  第二次上迫鑑定では、主としてS11、S34の時計における実験結果をもとにして衝撃により二番歯車と二番カナの間にゆるみが生じこのことにより、香箱車内のゼンマイが急速にほぐれ、このゼンマイの力により日車が動いた可能性があり、本件腕時計も右と同じような経過で動いた可能性があるとされる。しかし第二次牛山鑑定、当裁判所の証人牛山堯雄、同遠山正俊に対する昭和六〇年六月一八日取調の各尋問調書、当審第二四回公判廷における証人遠山正俊の供述からすれば、第二次上迫鑑定のS11、S34の時計の実験結果では、いずれも、二番カナと二番歯車の間のゆるみは認められるものの、日の裏カナと日の裏歯車のゆるみはなく、これに反し、本件腕時計では日の裏カナと日の裏歯車のゆるみも認められ、そして同じ衝撃に対しては日の裏カナと日の裏歯車のゆるみがはるかに生じやすいとされているものであり、右によればS11、S34の時計と同じように本件腕時計の場合に第二次上迫鑑定にいうゼンマイの力が日車に伝わつたとは直ちにいえるものでないし、前記(四)(2)エ(ウ)f記載のように本件腕時計の日車上の二か所の傷跡が、利則がはめていた状態の本件腕時計の日躍制レバーと日車の位置関係の状況と一致し、少なくとも日車上の日付文字の16の位置に傷がつけられた時、すなわち本件犯行により腕時計に衝撃が加えられた時以降は日車が動いていないと考えられる。

また、第二次上迫鑑定では実験時計が人間の腕にはめられているのと同じ条件を設定するため、実験時計を木製の台にクッションを介して取り付け、その木製の台の足用にゴルフボール、その下にゴムマットを敷きなされているのであるが(同鑑定書六項、別冊三冊四三四丁裏)、当裁判所の証人遠山正俊に対する昭和六〇年六月一八日取調の尋問調書によれば、右のような条件設定は半固定されたものであつて人間の腕にはめられた腕時計とはいえないというものであり(同尋問調書九ないし一一項、別冊一二冊二六〇二丁裏ないし二六〇四丁)、実際にも本件腕時計と当審で押収した第二次上迫鑑定の実験時計であるS10(当裁判所昭和五七年押第一〇号符号一三)S12(同押号符号一四)、S11(同押号符号一五)、S34(同押号符号一六)、S6(同押号符号一七)、S13(同押号符号一八)とを対比するとき、右各実験時計の縁には実験の際用意されたエッジによるものと思われる鋭く深い傷跡が見られるのに、本件腕時計にはそのような鋭く深い傷跡は縁には見られず、時計に加わつた衝撃力の差を窺わせるものである。そうとすれば、第二次上迫鑑定の各実験時計に加えられたような衝撃力が本件腕時計に加えられたかは甚だ疑問であり、第二次上迫鑑定の鑑定結果はこの点からも問題が残されており、本件について直ちに採用するわけにはいかない。

ウ  してみると、本件犯行の際加えられた衝撃により本件腕時計の日車が動いたことは認めがたく、腕時計は反証がない限り、ほぼ正確な時刻を指示して時を刻んでいたものとみるべきであり、本件においてはこれについてなんらの反証も出されていないから、原判決判示の犯行時刻である午後九時ころ、あるいは被告人が郡境で長崎留雄とすれちがつた時刻より前である午後一〇時以前を指示していた本件腕時計の日車が本件犯行の衝撃により動いて午後一一時一二分プラスマイナス二〇分の時間帯(第一次牛山鑑定)に停止したということは認めるに至らず、その立証は尽されていないというべきである。

(3)  以上検討したところによれば、本件腕時計からすれば、本件犯行時刻は昭和四四年一月一五日午後一一時一二分を基準に前後二〇分以内の時間帯というべきものであり、このことは、前記(二)(2)により証拠上認められる利則の飲酒終了時刻を同日午後七時五〇分ころとし何川鑑定にいう多くの人(身体小柄な利則をこのなかに入れえない特段の事由は認められない)のアルコール消費時間が三時間ということを考慮するとき、利則の死亡時刻は同日午後一〇時五〇分ころともなり、ほぼその時間帯が一致するものである。しかしながら、右時間帯には、被告人はすでに自宅に帰つていたものであり、被告人のアリバイは成立することになる。

9事実誤認に関する総まとめ

当裁判所は、事実誤認の主張に対し差戻判決の指摘に則り、とくに「陰毛」、「車てつ痕」、「指紋・血痕」、「犯行時刻の特定」の点について重点を置いた事実取調をなしたのであるが、右「車てつ痕」につき仮に昭和四四年一月一五日夜被告人が使用していた車により利則方前私道上の木戸(扉)付近(別紙第一図中の(6)の溝部分)にその車てつ痕が印象されたとした場合、同月一六日から一七日にかけての夜、一八日夜の各降雨が肝属川気象観測所における観測値の程度であれば、同月一九日の採取時までその車てつ痕が印象を留めうるとはいえるが、右車てつ痕が右一五日夜に印象されたと断定することに疑問が残り、その余の点については被告人の犯行を裏付けるに足る証拠による立証がなされるまでに至らなかつたものであり、却つて「犯行時刻の特定」の点については、事実取調の結果により、被害者利則の死体左手にはめていた本件腕時計により、昭和四四年一月一五日午後一一時一二分を基準として前後二〇分以内の時間帯というべきものであることが認められるに至り、その犯行時刻とされる時間帯に被告人は自宅に居たと認められるのであるから、本件犯行については被告人にアリバイが成立することになるといわざるを得ない。そして記録及び証拠並びに当審における事実取調の結果によるも、本件において被告人の自白の裏付けとされてきた客観的証拠である陰毛、すなわちキヨ子の死体陰部から採取されたという陰毛三本のうち一本である「甲の毛」と須藤鑑定の「甲の毛」として資料とされ裁判所にも押収された「甲′の毛」が同一であることについて疑問が残り、被告人の右手首の外傷瘢痕は交通事故の際に竹の切株でできた傷のあとでありえないわけではなく、いずれもその証拠価値に疑問があり、被告人の自白が真実であれば当然発見されて然るべきであると思われる被告人の現場遺留指紋、人血の付着した被告人の着衣、犯行に使用された兇器等がいずれも発見されないままであるなど右自白に客観的な証拠による裏付けが欠け、それらが発見されない理由につき首肯すべき事情も明らかにされたとはいえず、被告人の自白からは証拠上明らかな事実である死体に対する作為などの説明が欠落するうえに、被告人の本件犯行の自白は別件による逮捕及び勾留が続けられその八〇日余り後にようやくなされたものであること、清水幸夫作成の昭和四四年四月二一日付ポリグラフ検査結果回答書(一二冊三六一四丁裏)には、判定として、被告人は本件犯行の状況について聞知していないと主張しているが、五項目七個の裁決質問に特異反応が認められるので各裁決質問に相当する事実の認識があつたと考えるのが妥当であるとされているが、同書添付別表によれば、右質問関係における特異反応は一回あらわれているのみで、あとは反応微弱が五回、反応微弱の疑い一回であつて右判定には疑問があること、何よりも被告人の自白調書と矛盾する本件犯行についてのアリバイが被告人に成立することになるといわざるをえないことにかんがみると、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書における被告人の本件犯行に関する自白について信用性は認められないというべきであり、これが信用性の認められない以上、本件においては被告人と犯行を結びつける具体的内容のある直接証拠としては右信用性の認められない被告人の自白があるだけであり、客観的証拠であるキヨ子の死体陰部から採取されたという陰毛三本のうちの一本である「甲の毛」として須藤鑑定の資料とされ裁判所にも押収された陰毛一本、前記車てつ痕及び被告人の右手首の外傷瘢痕にそれぞれ前記のような疑問があり、原審第一回公判調書中被告人の不利益事実の承認を含む供述部分はじめ全証拠によるも犯罪の証明がないことに帰するといわなければならない。

してみると、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書における被告人の本件犯行に関する自白に信用性があるとし、これを主要証拠とする原判決挙示の各証拠により、原判決判示の罪となるべき事実を認定した原判決は証拠評価を誤り事実を誤認したものといわざるをえない。論旨は理由がある。

第四  結び

よつて、刑事訴訟法三九七条一項、三七九条、三八二条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書によりさらに判決する。

本件公訴事実は、前記第一・一に「本件起訴にかかる公訴事実」として記載するとおりであるが、前示のとおり犯罪の証明がないことに帰するので、同法四〇四条、三三六条により無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官吉田治正 裁判官松尾家臣 裁判官井野三郎は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官吉田治正)

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